お坊さんになったにもかかわらず、僕はお墓参りや法事に行くことの意味がわからなかった。
今日は見たいテレビがあるんだよ。
明日は友達と遊びたいんだよ。
生きている自分が一番大事だろ。
死んだもんのところに行ったって、意味ないじゃないか。
ありきたりな反抗心が、高校生の頃から僕の中にはあった。
そんな時、家族からきまってこう言われる。
「ご先祖さまがいなければ、今の自分はない。なんて罰当たりなことを言うんだ」
そんなことわかってる。
でもなぜ死んだ人にそんなことをしなくちゃならないんだ。
その意味を教えてくれよ。
僕は心の中でずっとそう思い続けていた。
そんな疑問を消し去ってくれたのは一緒に法事に行った際に聞いた、父である住職の法話だった。
それは、人間を木に例えた「僕の木」のお話だった。
僕はまだ小さな一本の木。
大きくなりたいと願っている。
幸せになりたい。健康でいたいし、お金もほしい。
いい家に住みたいし、美味しいものも食べたい。
もっともっと太い幹にしたい。
子供もほしいし、いつか孫もほしい。
みんなみんなが元気で幸せでありたい。
大きな大きな枝を広げたい。
いつしか、僕の木は大きく太くなっていった。
上へ上へ。
それだけを強く望み、今までやってきた甲斐あって、誰よりも大きく、誰よりも太く。
ある時強い風が吹いた。
風は体中に吹き付ける。
足元を踏ん張り、力一杯我慢していた。
周りのみんなも懸命に耐えている。
しかし、大きく頑丈だと思っていた僕の木は、悲しいほどあっけなく倒れてしまった。
それを横目に隣の小さな木は、倒れず平然と立ち続けている。
なんでなんだ。こんなに努力して来たのに。
なんでなんだ。子供の為だけを思って一生懸命やって来たのに。
自分達の幸せだけを追い求めて、ここまで大きくなったのに。
こんなことくらいでダメになってしまうなんて。
隣の小さな木は言った。
「それは目先のことばかりにとらわれて、根の部分をおろそかにしてきたからだよ。君の根は、あまりにも貧弱だよ。」
そんな例話の後、父の話はこうまとめられた。
どんなに大きな木になっても、足元がひ弱だったら、少しの風でも倒れてしまう。
どんな困難が訪れようとも、どんなに苦労をしようとも、根がしっかりした木は揺るぐことはない。
根を大切にしなさい。
根の部分というのはご先祖様。
そして、ご先祖様に供養するっていう行為が、根に水をやり、肥やしをやるってことなのだよと。
僕はその話を聞いたとき、パ~っと光が差した気がした。
小学生の頃、葉っぱに水をかける僕に優しく根っこに水をやるんだよと教えてくれている先生の姿がふいに蘇る。
僕は、水も肥やしも葉や枝にかけていた。
まさに上にだけ伸びようとしていた木だった。
今のままではきっと少しの苦労で倒れてしまうような根元の弱い木になっていただろう。
相田みつおさんの言葉にもある。
「花を支える枝。枝を支える幹。幹を支える根。根は見えねんだなあ」
僕を支えてくれるお父さん、お母さん。そしてばあちゃん。
その下の土で見えない部分から、じいちゃんが支えてくれている。
その下にはひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん。その下にはひいひい…。
その下にはひいひいひい・・・。
根を伝っていくと、限りなく下まで伸びている。
水をやり続よう。
そしたらきっと僕は少々の苦労じゃ倒れない!
すごく晴れ晴れとした気分になった。
今後は自分の言葉に変えて伝え続けていこう。
たとえ死んでもいのちは尽きることはない。
ただ見えなくなるだけ。
それでもしっかりと残された命を支え続けてくれている。
ありがとう。
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山地 弘純
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