資格を取ったからといって、一人前のお坊さん面してやっていくのは無理だ。
何もかにも自信がない。
経験を積めば、僕でもそれなりのお坊さんになれるのだろうか。
そんな僕の脳裏に焼き付いて離れない友達との会話。
彼はやる気に満ちあふれた表情で僕に告げた。
「なあコウジュン君、僕はこの専修学院を卒業したら四国八十八ヶ所霊場の歩き遍路に行くわ。」
この頃はまだブームの走りで、僕は歩き遍路という響きがピンと来なかった。
讃岐の国でお生まれになった真言宗の宗祖である弘法大師様が、若き日々に修行されたお四国霊場。
その聖地を我々もお大師様の足跡を辿るように修行するのだということは知っていた。
同行二人(どうぎょうににん)といって、お大師様が一緒にお修行して下さるのだ。
「お四国を回ったら、自分を一回りも二回りも大きくさせてくれるって先生が言ってたしな。」
「へえ。一人で行くの。」僕はそう尋ねた。
「いや、二人で。」
「え、誰と行くの。」
「お大師様と!」
そう答えた彼のしてやったりという表情は忘れられない。
にやけ面したそのほっぺたを目一杯引っ張ってやろうか、とか言いながら僕らは笑い合った。
そんな他愛もないやり取りが、時間が経つにつれて僕の中で大きく膨らんでいった。彼は卒業してすぐに向ったんだろうか。
なあY君、僕も真似していいかな。
どうしようもなく歩き遍路に行ってみたくなったんだ。
家族に相談すると、諸手を挙げて賛成された。
「いったんお寺に入ると、もう長期間出かけることなんてできなくなる。四国遍路は素晴らしいことだし、今この時期は歩くには一番いい季節だ。今すぐに行って来い。」と父さんは言った。
僕はもう少し四国遍路の情報を入れて、綿密な準備をしてから行こうと思っていた。
しかし母さんから尻を叩かれる。
「なるようになるから大丈夫。それがお大師様のお導きだから。とにかく善は急げだ。行ってこーい」
追い出されるようにして僕は家を出る。平成十二年四月六日のことだった。
専修学院で着ていた作務衣に、じいちゃんからもらった輪袈裟。頭には菅笠をかぶる。
右手で同行二人と書かれた杖をつき、左手に数珠を持つ。
背中には下着や作務衣の着替え、タオル、洗面道具、カッパ、ガイドブックなどの入った大きなリュックサックを背負う。
僕のお遍路旅が始まった。
電車を乗り継いで辿り着いた徳島県の坂東駅。
それは小さな小さな駅だった。
四国八十八ヶ所霊場第一番の最寄りにあたるこの駅が、まさか無人の駅だとは意外だった。
二人の白装束の男性がこの駅で降りていた。
お互いに意識すし合い、チラチラと視線を送り合っているのだが話しかけることができない。
なに分僕は人見知りなもので・・・。
先に歩きだした男性から20メートルほど間を開けて歩きだした次の男性。
僕はさらに20メートルほど開けてその後を追うというおかしな構図が出来上がった。
しばらく歩くと第一番霊山寺が見えてきた。
お寺に入る山門の前で菅笠を脱ぎ、合掌して一礼する。
入口にある釣り鐘をゴーンと鳴らして、手洗い場で手を洗い口をすすぐ。
そして本堂と大師堂の2カ所でローソクと線香を供養し、お賽銭をうち、おつとめをする。
幼い頃から小豆島にお参りしていた僕にとっては、お遍路の心得はほぼ頭に入っている。
僕のやや長いおつとめが終わると、先ほどの二人の姿はもう見えなくなっていた。
僕は納経帳を買い、ご朱印を捺していただく。
納経とはお経を納めた証。ただのスタンプラリーにならないようにと、後のお寺で教えられた。
ここ一番札所を皮切りに、お寺からお寺へ八十八番まで進んで行く。
いったい何十日かかるのだろう。
宿泊はお寺(宿坊)や遍路宿でさせていただき、徳島、高知、愛媛、香川に渡る長き道のりを、ただひたすら歩いて歩いて歩き続ける。
四国は死国ともいうそうだ。
死に装束をつけ、一度死んでくる気持ちで修行する。
そしてお遍路が終わる時には生まれ変わった自分にならなければならないのだ。
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山地 弘純
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