お寺を継ぐことに何の抵抗も覚えなかった小学生時代。
身体は弱かったが、それなりに成長していった。
僕の胸にはいつも首から掛けられたお守りが在った。
恥ずかしいと思おうが、運動の邪魔になろうが外すことはできない。
高野山の南院からお授けいただいた波切り不動様のお守り。
僕の身の安全を守って下さる仏様だと、耳にタコができるほど聞かされた。
一年生の頃にはすでにお経を憶え、各家々を拝んで回るお盆参りの時には、おじいちゃんについて回った。
こぼんさん姿がかわいいと近所の方々から言われ、きっと必要以上に張り切っていたに違いない。
三年生の時には得度という、髪を切り、正式に仏様の弟子になる儀式を行った。
僕にはもう一人お父さんがいる。
「岡村のおじいちゃん」といつも呼んでいた人が、この得度の時より父親になった。
「菩提親」と言われるその存在は、在家の立場から僕を見守り指導して下さる立場なのだそうだ。
やや年のいったもう一人のお父さんは、亡くなるその日まで僕の事を実の息子のように心配してくださった。
こうして得度を済ませて以降、お地蔵さまのお祭り、ご本尊様の護摩法要、お大師様の法要など、お寺の行事には全てこぼんさんとして出仕することになった。
おじいちゃんにお父さんに僕。3代がそろって善住寺は安泰だ、と檀家さんから言われ、僕もそれが当たり前のことだと思っていた。
また、僕は3才の時から毎年小豆島にお参りを続けている。
両親は僕を授けていただいたお礼参りとしてのお遍路だったが、僕はただの旅行気分だった。
これが両親との年に一度の旅行だった。
遊園地とか、もっといいところに連れて行ってくれればいいのにと不満をこぼしたこともあるが、それでも小豆島はとても好きな場所だった。
こうしてお坊さんになるようにと数々のマインドコントロールを加えられながら育った僕だったが、身体が丈夫になるにつれ反発心が芽生えていく。
高校の部活で入ったサッカーにのめり込み、おかげで小児ぜん息はほぼ完治したが、お寺の活動一切を敬遠するようになった。
いつしか生じた想い。
「僕はお坊さんにはなりたくない。サラリーマンになりたい。」
いったいどんな会社のサラリーマンに?そんなのなんだっていい。
とにかくサラリーマンになりたい。ビシッとスーツを着こなして、ネクタイを締めて・・・。
あんなお坊さんの着物なんて着たくない。
山地 弘純
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