参拝者の誰もが、二度と出逢うことができないかもしれないこの大法要を胸に焼きつけようと、全身全霊を傾けている。
荘厳された本堂内は高揚感で満ち溢れていた。
束の間の静寂を打ち破り、高らかに発せられたお経の声が一面に響き渡る。
僕はぶるっと体を震わせた。
二十五カ寺もの御寺院様による朗々たるお経の声がジンジンと体の中に染み込んできて、僕は鳥肌が立ってしまった。
これほどまでのお経はそうそう聞けるものではない。
まさに五十年に一度に相応しい素晴らしい読経だった。
僕もありったけの声を振り絞る。
しかし顔を上げた瞬間、妙な違和感を感じる。
あーそうか。大日如来様と顔を合わせながらお経を唱えるなんて初めてだもんな。
一人で納得しながら、今一層しっかりと目を見開き御本尊様を見つめた。
「ずっと扉の向こうで見ていて下さったんですね。」
僕はしみじみと心で呟いた。
法要が終わり、住職の挨拶があった。最近涙線の弱い住職は予想通り感激で声を詰まらせた。
僕は相変わらず淡々としていて、クールなものだ。そう思っていたのに、新聞記者さんのインタビューに受け答えしているうちに、突然熱いものが込み上げてしまった。
自分でもビックリするくらいの涙が溢れ出し止まらない。
過疎化の進む地域。
減り続ける檀家。
遠ざけられる宗教。
こんな中で人があつまるんだろうかと不安に思い続けてきた。
しかし、お寺を盛り上げようと様々なお力添えをいただいた檀家の皆さん、信じる心を絶やさず持ち続ける大勢の参拝者の皆さんのおかげで、これほどまで盛大で感動的な一日を設けることができたことは、感謝してもしきれない。
それに胸に感じたのはそれだけではない。
五十年ぶりの御開帳。
扉の中から溢れ出した思いはとても重く、それでいて温かいものだった。
まるでタイムカプセルだと僕は思った。
子供たちへ。孫たちへ。
輝く未来を祈り閉じられた扉に違いない。
時を越え、色鮮やかに蘇った五十年前の人々からのメッセージを、僕は確かに受け取った。
いや、僕だけじゃない。きっと誰もが・・・。
僕は涙の理由を必死で探していた。
お参りに来てくれた十才のかわいい女の子が言った。
「五十年に一回なんてケチだな~」
僕はアハハと苦笑いしながら答える。
「五十年に一回だからいいんだよ。カズキも五十年後には必ずお参りに来てな。」
「うん」と答える無邪気で幼い顔を見ながら、この子でさえ次は六十才になるんだなーとつくづく思った。
山地 弘純
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