12月28日
新温泉町役場に6時集合。
僕は集合場所の変更をちゃんと聞いておらず浜坂駅に行く。
あれ、誰もいない。
あわてて高森先生に電話し、時間までには間に合い事なきをえる。
早めに家を出てよかった。
新温泉町からの助成により、マイクロバスを一台、しかも運転手付きで手配くださっている。
カニの絵が描かれたバスだ。ものすごい目立ちそう。
乗れない分は松本先生が車を一台出して下さり、僕はそちらに乗る。
高校生の男の子二人も一緒だった。
妻が見送ってくれる。子どもたちを頼んだよ~。
2時間おきぐらいにサービスエリアで休憩をしながら、高速道路を走り続ける。
12時前の休憩で各自昼食を摂る。
静岡に入ったころ、運転を少し変わり、僕も2時間ばかり運転する。
しかし静岡からでるところまで行かず、静岡って広いんだな~と実感。
スケジュールより遅れ気味の運転だったが東京に近づくにつれてさらに渋滞で遅れる。
東京インターで降りると、さらに進まなくなる。
東京の天沼小学校に着いたのは予定の15時を大きくまわった、18時のことだった。
この天沼小学校を中心とした杉並区が高森先生の志に賛同した懐の東京支部である。
軽く学校の案内をしていただき、一緒に仙台に向うこととなった。
ここに兵庫県の浜坂チームと、東京都の杉並チームというものすごい田舎とものすごい都会の融合となった。とてもおもしろいな~と思った。
また東京にも支持してくれる基盤を作った高森先生のすごさを知った。
もう一つおもしろいのは、炊き出しなどの総合的な指示を出して下さる指導教官として、プロレスラーの成瀬さんも合流したこと。また途中で他のレスラーとお相撲さん、芸人さんも合流するという。いったいどんなご縁があって、このような繋がりができたのだろう。
なんともいえないワクワク感でいっぱいになった。
22名の子供達に15名ほどの大人たち。
仙台への道はまだまだ遠く、宇都宮で宿で一夜を過ごした。
到着は22時。乗りづくめの一日に、体がゴリゴリときしんだ。
12月29日
福島県を通過し、宮城県に入る。
このまま目的地へと思ったら、宮城も通過して岩手県に入る。
高森先生が広く沿岸部の被害を子どもたちに見せたいと思ったのだろう。
岩手県の陸前高田、宮城県の気仙沼市、南三陸町、石巻市へを南化していく。
主要スポットではバスからみんなが降り、自分の目で見て、自分の足で歩いていく。
陸前高田の市役所、スーパーMAIYAの建物の中を見ると、背筋が寒くなった。
生々しい津波の傷跡が今でも残されていたからだ。
津波が襲って来た時の状況などが想像されそうになる。
もしもその場に自分がいたら・・・。
いやだ、考えたくもない。
瓦礫の上に残されたボロボロのランドセルが痛々しかった。
写真を撮るのもはばかられる気がした。
だけど僕は伝えなければならない。風化しつつある人々のこころに強く訴えかけるために。
沿岸部を走り、気仙沼に向う。廃墟として残る建物を除くと、大きく広がった空間が目の前に広がる。コンクリートの土台だけが残る町並みだが、カーナビの表示でここに何があったのかわかる。
ここは鉄道で、ここに駅があったのか~。
この建物は小学校だ。しかし見るも哀れな廃墟と化している。
「消防署前です。ご注意ください。」
そんなアナウンスも虚しく、もうそこに消防署などない。
そこら中に積み上げられた瓦礫。それらの行く先はいつ決まるのだろうか。
気仙沼市では大きな船が内陸に打ち上げられたままだった。
船のそばにはひまわりが植えられている。
瓦礫に咲く花は、復興への希望。
来年花を咲かせるころには、もっともっと復興が進んでいて欲しいと、ただただ願う。
海沿いをグネグネとバスは走っていく。
あ!なんだか見覚えのある景色。
橋桁だけを残したバイパス道路跡。
看板に現れた歌津の文字。
そうだ、もうここは南三陸町に入ったんだな。
あの時泊まった民宿が歌津だった。民宿のみなさんはどうしているのかな~。
元気にしてればいいけど。
急速に日が落ちていく。
南三陸町の中心に着いた時には闇が辺りを包み始めていた。
青黒い微かな光が残された空の下に、あまりにも広大な被災の町が広がっていた。
何も変わっていない。
なにも復旧が進んでいない。
ごっそりと肉をえぐられ、赤い骨だけにがむき出している建物。
若い女性職員が自分の身を犠牲にしてまで最後まで避難を叫び続けたという、あの防災センターだ。
こんなことがあっていいのかと思うくらい、壊滅的なまま。
もう元の姿には戻らないのだろうか。
ここに住んでいた人たちの想いは、どんなに苦しいだろう。
予定の時間からはかなり押していた。
石巻の大川小学校へ着いた時には18時。どっぷりと日が暮れていた。
ここでは読経し供養をしてくださいと高森先生からお願いされていた。
「副住職が行って下さるので、せっかくだからみんなと祈りたいんです。」
衣を羽織り、輪袈裟を掛け、数珠をする。
50部持ってきたお経の本は、そっとかばんに戻した。
ほんとは明るいうちにここに辿り着いて、みんなにお経の本をみながら一緒に唱えてもらいたいと願っていた。宗教の違う人も、今までお経を聞いた事さえもない人も、一緒に僕の声に合わせてほしかった。
しかし文字をみることができないほどの真っ暗闇。小さな電灯と、車のライトで照らしてくれる灯りをたよりだ。
僕は独唱することにした。
闇の中に照らし出された供養塔と祭壇のみが輝いているような気がした。
このような悲劇が起ったけれども、それで亡くなった人たちの人生がかわいそうなものだったとか、最悪なものだったとか、無意味なものだとか思ってほしくない。たとえ短い人生であっても、生きている瞬間はキラキラと輝いた素晴らしい人生だったのだと思うから。
だからその人の人生を否定するんじゃなく、祝福してほしい。
そんなことをみんなの前で読経前に言った気がする。
そして終わった後にも少し法話をさせてもらった。
追善供養のお話だ。
善行を積みたくても積めなくなった人たちに変わって、私たちがそれに変わって善い行いをする。それが繋がるってことなんだって知ってもらいたかった。
聞いていてくれるみんなの目が、うるうると光を発しているように見えた。
誰ひとりよそ見をする者もいない。
真っ暗だからこそ、その照らされた場所だけを集中して見ているのだろう。
誰もが僕の方を真っ直ぐに見つめ、微動だにせずに並んでいた。
なんだ、明るい中でみんなで読経できなかったけれど、かえって素晴らしい時間を手に入れることができたじゃないか。
静かな闇に包まれた祈りの時間。亡くなった方々、たしかに引き継ぎますよ。
僕はそんなみんなの姿が、とてもとても美しいと思った。
街の中心にあるパールシティ仙台に着いたのはすでに20時を回っていた。
ご飯を軽く外に食べに行き、(近くのすき屋だったが)、21時ごろからミーティング。それが終わってから班ごとに分かれて、明日の準備をする。
僕の入っている5班は大根切り。ツインルームを2室使って、まな板を出来る限り敷き、包丁でイチョウ切りにしていく。
女の子のエプロン姿もいいけど、男の子のその姿もかなりかっこいいな~と秘かに思った。
あくびをしているものもちらほらいて、みんな疲れているだろうに。
結局23時過ぎまでかかった。
僕と谷口先生は炊き出し指導教官のプロレスラー成瀬さんと一緒に大根を車に積み込む。
部屋に帰ると23時半だった。なんだかお風呂をためるのも面倒だなと思ったが、しっかり体を温めておこうと思い、浴槽にお湯を貯める。
そして0時前に入った。
あ~気持ちいいな~と体の力を抜いて目をつぶったら、なんだか体がぐわんぐわんと揺れる。
あれ?めまいかな。疲れてるのかな。
いや違う!地震だ!
僕はあわてて湯船を飛び出した。
なんだか心臓がつかまれたような気がした。もしものことを考えた。
幸いテレビの地震速報では震度3から4程度を示し、津波の心配もないということだった。
わずかな揺れでさえこんなに怖いんだ。地震のトラウマに悩まされる人たちはいったいどんな思いで耐えているんだろう。
眠れるだろうか。そんな心配は杞憂に終わり、あっという間に眠りに落ちた僕は携帯のアラームで目が覚めた。
12月30日、朝6時起床。
さ~、いよいよ炊き出し支援の日だ。
今日は亘理町と仙台市ニッペリアの2カ所の仮設住宅をまわる。
この時の気持ちは、まだ自分に余裕がなかったように思う。
炊き出しはどんな感じになるんだろう。
みんなの中でうまく自分の仕事を見つけれるかな?
亘理町の仮設住宅に着くと、住民のみなさんと挨拶をした。
ハマダイコンの繋いだご縁だということだ。
農地の多くが津波に津波に襲われた宮城県。特にイチゴの産地として知られる亘理町は、塩害が深刻だということだ。そんな土壌の塩分吸収効果があると言われたのがハマダイコンで、新温泉町から贈られた。そして実際に植えられたハマダイコンによって塩分濃度が驚くほど減少したのだという。仮設の住民のみなさんが希望の花を咲かせたハマダイコンの写真をもって、我々に感謝の言葉を述べて下さった。
僕は全然そんなことを知らなかったので、なんだか恥ずかしかった。
その後、炊き出しの準備に入る。時間がないので急がなければならない。
しかしどうしていいのか少し戸惑った。
大人も子供も必死でなにをすればいいのか考えながらやっているが、それでもやはり手が空いている人もいたりして、うまく使ってあげたいんだけど、僕自身うまく指示ができなかったりして・・・。
チクワは結局出せなかったのかな?
蟹もなかなか来なくて、大根は煮えていくし、ちょっと焦った。
包丁も出刃包丁が見つからなくて苦労したよね。
道具の在り処をみんなが把握できてなくて、探すのに手間取ったね。
だけど冷凍されたカニが遅れて到着した車から降ろされてからは、だんだんにみんなが仕事を見つけて、よどみなく動き始めた気がする。
冷凍カニを洗うときには、冷た過ぎて手の感覚がなくなるくらいだったけど、みんな頑張ってた。
カニを包丁でさばくのは、ちょっとあぶなっかしい子もあったよね。よかった手を切らなくて。
僕はカニ汁の講習を受けたため、成瀬さんにカニ汁はまかせたと言われてしまい焦ってしまう。これは大変なことになった。
ま~作り方自体は簡単なんだけど、やっぱり味の責任がとり難いな~と・・・。
ま~いいや、なるようになれ。
大鍋に水をはり、大根を入れる。昨年は大根が煮えなくて困ったらしいという言伝があったので、別の小鍋で煮てから入れていくという作戦に。
カニはたわしで洗ってから、足を落としていく。それから真っ二つに体を切る。
沸騰した大鍋2つに50匹(つまり100個)づつ豪快に放り込む。
それから20分ほど煮込み、アクを取っていく。その間に味噌が混ざりやすいようにボールの中で溶いておく。
僕はそうこうしながらもみんなの雄姿を記録しようと、暇を見計らってはスマホで写真を撮ることも忘れない。なにしろ僕にはブログで伝えなければならないから。被災地の様子と、子どもたちから姿勢から伝わる何かを。
さ~いよいよ味付けだ。僕はやや濃いめが好きなので、自分の味覚にしたがおう、などと思いながら味噌を入れていく。う~ん、薄い。う~ん、まだだな~。もうちょっと入れよう。
ちょっと自信なくなってきたし、北尾先生も巻き込む。
「一緒に味見してください。」
よし、オッケー。二人が同じラインで合意したのでホッとする。
宣伝部隊が回ってきて、そろそろ人が集まり始めている。
「さ~こっちはいつでもオッケーです!」
その言葉に全部の持ち場が呼応する。
カニ汁を注ぐ高校生の女の子たちもスタンバイオッケーだ。
成瀬さんが開始の合図をする。
とにかくまずは僕が元気よく行こう。そう思っていた。
きっとみんな恥ずかしがり屋だから・・・。
「こんにちわ~、カニ汁のお接待してま~す。あったまっていってくださ~い!」
案の定一人で浮いてるって思ったけど、かまわず笑顔で声をはりあげていた。
そしたら成瀬さんが「こらみんなが副住職を見習って大きな声を出せ~」って喝を入れてくれた。 僕はそれでも大きな声は無理だと思っていたよ。シャイな子どもたちには小さな声で精一杯だろうと。
でもやっぱり自分から変わろうと参加してきた子たちは違うな~。僕のあとに復唱するように元気よくついてきてくれた。
「こんにちわ~」「こんにちわ~」
「カニ汁のお接待してま~す」「お接待してま~す」
「あったまっていってくださ~い」「あったまっていってくださ~い」
高2の女の子3人のよく揃ったかわいい声が、僕の気分も高揚させていく。
これでこそ被災地の方々に温もりをお届けできるんだ。
2つの大鍋に溢れんばかりだったカニ汁はみるみる減って行った。
運び隊の子どもたちはお盆を持って各家庭にせわしなく動いてまわっている。
僕たちはカニ汁注ぎ隊でみなさんのお顔もよく見れないけれど、喜んでくださればいいなって思った。
最後少しカニが足りなくなった。でもカニの出汁がしっかりでたお汁を飲んでいただいた。
少しだけ余った汁をスタッフのみんなにも回して飲んでもらったが、味がしっかりしてて美味しいってみんなに言ってもらえて、心底ホッとした。
余韻を楽しむ間もなく、慌ただしく片付けに入る。そして最後に仮設のみなさんと集合写真を撮ってお別れした。
いつからか雨が降り出していた。
やや雨脚が強まったころ、ニッペリアの仮設住宅に着いた。
途中に昼食のおにぎりや、味噌を予定より多めに使ったので味噌を補充した。
ここの仮設住宅は集会所の中でカニをさばくことができたし、軒下で全ての作業をすることができたので、それが幸いした。
一回炊き出しを経験したことで、みんなほんとにスピーディーに物事を運ぶことができるようになっていると感じた。とはいえ、今度は各班の持ち場が変わる。
亘理町では間に合わなかったチクワも今度はお出しすることができるということで、チクワのなかにきゅうりとチーズを詰めていく。僕らの班は今度はカニ汁じゃなくてチクワ班だった。
僕も今度はそっちにと思っていたんだけど、カニ汁の方に呼ばれる。
「どうやったらいいんですか~?」
必要とされるってのは嬉しいものだと思う。ここなのか、僕の居場所は。
そう感じながら再びカニ汁を作っていく。
それにしても手が足りない。子どもたちは宣伝部隊や運び隊に多く必要なのだ。
よく考えると、僕もその持ち場こそが最も大切なような気がした。
カニ汁作ることが目的じゃない。現地の人々と心を通わせることこそ目的だと思うから。
今度もカニ汁を作り終わるまでは責任をもった。味付けは今度は3人くらいで確認した。
さらに安心。
あとは中学生の子供達にポイントだけ伝えてお任せし、僕もカニ汁を運ぶ方を手伝うことにした。ここニッペリアでは、プラのお椀に入れる数は少ない。多くの家庭がお鍋を持参して下さるのだ。
「うちは3人分お願いします。」「うちは5人です。」
お鍋を持った上に、ちくわや白玉団子のお接待はもちきれるものではない。
「うちまで持ってきてくださるんですか?そんなの悪いです。」
「いえいえ、どこまででもお伴しますよ。」
とかいいながら運んでいく。雨が入らないようにカニ汁にはラップをかける。僕自身はカッパを装備している。
部屋の中まで運んでさしあげると、ありがとうという言葉が。
3人で行ったお届け先。おばちゃんが僕にお世辞も言ってくださる。
「あら若いから高校生3人かと思ってた。」
「えっと、20年前くらいに高校生やってました~!」
こういうやり取りも楽しいよね。
「僕たち兵庫県の北部の新温泉町ってとこから来ました。あの~、遠く離れていますけど、心はいつもみなさんのそばにいるつもりです。」
僕はそう言ってお別れした。ずっとなんて言おうか何日も前から考えてたんだ。
何度も返ってくるありがとうの言葉。
聞いていた高2のひろきくんが、それいいですね。今度は僕もそう言おうって言ってくれた。
その時ふっと思った。僕の役割はなんなんだ?カニ汁を作ることなのか。
いや違うな。不器用に話すとっかかりがつかめない子どもたちが、少しでも被災地のみなさんと繋がる手助けをすることだろ。
介在しすぎるとダメだし、あくまでもさりげなく・・・。
ニッペリアもカニ汁がぎりぎりだったようだ。亘理町の時とは逆に、カニの身が残って、汁が足りないくらいだったとのこと。そういえば、最初から汁の量を惜しむことなく入れていたな~と苦笑い。でも二回こなした結果をふまえて、だいたいの目安がついた。
そしてもう一つわかったことがある。仙台は熊谷よりも寒くない。まったくもって予想外。着込みまくった僕からは湯気があがっていた。
最後に忘れ物がないかチェックしていると、おばちゃんが言う。
「忘れ物ないようにね~。」
「多分ないと思いますけど、忘れてたらまた取りにきますよ」
「そんじゃ忘れ物していって~」
「あははは」
忘れ物していってか・・・。また来てほしいと思ってもらえたなら、幸せなことだなと思った。
結局忘れ物はあった。
台車を忘れていたのだが、残念ながらニッペリアではない。
亘理町に忘れていて、成瀬さんが単身取りに戻って下さったらしい。
ビジネスホテルに戻ると、まずミーティング。
そこで自己紹介をした。やっぱり僕はいまいち話すのが下手だったが、ま~その分は書くことで補おう。子どもたちはみんなしっかりしてるな~。
そんなこんなで僕たち大人スタッフは再び明日の準備。
僕は成瀬さんの片腕のように働かせていただいたので、いろいろプロレスラー成瀬さんとお近づきになれて嬉しかった。「僕のこと、呼び捨てで呼んでくださいよ」「いやいやそれはできないよ。そんじゃ山ちゃんな。」
何度も呼ばれるうちに、高森先生に、山ちゃんになっちゃったねと笑われた。
しかし班の子と今日は一緒にご飯できなかったことは残念だった。「先生一緒に行こうよ」って言ってくれたのに、しくしく。
僕らは遅れて夕食。高森先生と成瀬さんと谷口さんと4人で松屋で食べた。昨日はすき屋、今日は松屋。それ以外はすべてコンビニ。
すべては時間に追われている。
帰ってみると、大根やネギ切りもすでにはじまっていた。やっぱり昨日より手際いい。
明日はお餅つきもある。もち米を洗って、水につけたり、うすに水をはったり、いろいろと準備をぬかりなくこなしていく。
このあたりは勝手知ったる方の指示にしたがって行った。
わずかな隙を見て、うちに電話する。昨日も掛ける暇がなくってごめんと謝る。
地震情報でさぞかし心配したことだろうと思ったが、みんなが知らなかったらしく、余計な心配かけなくてよかった。やけによくしゃべれるようになった娘の声を聞いて和む。 すぐ切らなくちゃならなくて申し訳なかったけど・・・。
大根を車に積み込むと部屋に戻る。昨日よりは早く休めるな。
昨日揺れてあわてて飛びだしたお風呂も、今日はゆっくりと浸かった。
あれから身に感じるほどの揺れもこなくて、ほんとにありがたい。
またしてもぐっすりと眠ることができた。
12月31日、大晦日。
今日は出発がなんと8時。成瀬さんの呼び掛けに応じたプロレスラーや力士の方の到着に合わせるためのようだった。朝がゆっくりとできた。
東松島市ひびきの仮設住宅には居酒屋、散髪屋、食料品屋さんなどがあった。
仮設でも商売が成り立っているんだな~と思った。
ありがたいことに今日は快晴で、屋根のないすがすがしい空の下で炊き出しをすることができる。テーブルを並べ、浜坂カニの横断幕をはる。
そこに6,7人が一列に並んでカニをさばいていく。なんて絵になるんだろうと僕は一人で感動している。
それにしても全員のスピードが昨日とは比べ物にならない。仕事の段取りを覚えた全員がテキパキと動いて行くので、あっという間に準備が整って行く。
ただ、唯一困ったことが風の強さで、火を扱うにも、容器を並べるにも邪魔をする。
それでも成瀬さんやプロレスラーの方々が板と段ボールで風よけを作っていく。
さらにガスの周りにはアルミガードで2重囲いにする。
なんとかこれで大丈夫。それにしてもアウトドア慣れした人がいるからこそだな~としみじみ。
だけど最後にフードパックにつめたちくわを並べてたら風にもっていかれてあぶなかった。
それは段ボールに入れて並べて一件落着。ほんとにいろいろ対処すべき問題点ってでてくるもんだよね。
相変わらず僕はカニ汁を作り上げて、それから運び隊に立候補。
うん、今日は絶対運びたい。そして子どもたちになんとかきっかけを作ってあげるんだ。
高2のこなみさんも運ぶのが一番やりたいって言っていた。
それでもなかなか部屋まで運んで行くだけの時間で、なにかを聞こうと思っても聞けるものではなく、また向こうもしゃべっていいんだろうかという遠慮もあるのかもしれない。
ただ食料品をあつかうお店をしている初老のご夫婦のところへ高一のあすかさんと一緒に配達にいくといろいろお話してくださった。なんだかごめんね、愚痴ばっかになっちゃってと言うおじいちゃん。仮設住宅は隣同士が気を使うから大変なんだそうだ。
朝4時くらいに出なくちゃならないんだけど、鍵の開け閉めの音でも隣から苦情が来るんだ。また自分たちが隣の音を聞いてても、たしかに鍵の音とか気になるなって思ったよ。
プライバシーのなさとそこから来るストレスも大変なものなのだろうな~と推察された。
居酒屋と散髪屋とウチだとね、一番ウチが商売として成り立つと思っていたんだけどね。だけどそうじゃなかった。ウチが一番客がこねえや。
そんな赤字続きだというのに、僕とあすかさんに「はい、これ飲んで」って缶コーヒーを渡してくる。そうなんだ、前回南三陸に行った時もそうだった。なんにもないのに、それでもなにかお返ししようとするんだ、被災地の人たちは。
中には「なにもお返しするものがなくてごめんね。」って言ってくれる人もいる。
すごく胸が熱くなった。
普段なら僕たち二人だけもらうっていうのも気が引けてお断りするかもしれないんだけど、ありがたく受け取ってその場ですぐ飲んだ。そのコーヒーは、ほんのり苦くて、ほんのり甘い。まるで僕の気持ちのようだった。
僕たち二人はまだ作業を続けるみんなの元に戻ったんだけど、なんだか僕は後ろ髪を引かれていた。戻ってみると運びがやりたいと言っていた高2のこなみさんがちくわを配っている。
「あれ?運びがやりたいんじゃなかったっけ?」
「でもここやる人がいないから。でもここでもいいんです。直接渡せるから。」
彼女の自己犠牲というか、責任感に、えらいなって思った。
そうだ、あとでもう一回さっきのおじいちゃんのとこに連れていってあげよう。そう思った。
あっという間にカニ汁はさばけていき、大方終わりに近づいた時、こなみさんも手が空いたみたいだし、もう一人高2のひろきくんが空いていたので声をかける。
「さっきいろいろ話してくれたおじいちゃんのとこに戻るんだけど、話を聞きに一緒に行かない?」
「はい、いきたいです。」
二人は声を合わせて即答だった。
「おじいちゃん、また戻ってきちゃいました。またちょっとお話聞かせてくれませんか?」
そう言って店に戻ると、今度は3つイスまで準備してくれた。
今度は震災当日の様子を話してくれた。地震の時お店の冷蔵庫の引き出しが全部出てきて、お客さんが閉じ込められてしまったこと。なんとか車に乗って逃げだしたものの、津波に飲まれてしまったこと。
「車って浮くんだね~。」しみじみと語るおじいちゃんに、僕たちはへ~っと相鎚をうつ。
「海の方に流された車はみんなどうなったかわからないよ。おれは山の方に流されたから。」
ほんとに恐怖で思い出したくもないだろうことを、淡々と語って下さる。
「おじいちゃん、パワーあげるよ」
最後にこなみさんとひろきくんが握手して、若いエネルギーを送る。
僕はおじいちゃんの背中をさすってあげた。
そしたらその瞬間におじいちゃんの涙線がふっと緩んだ。突然泣き出しちゃって・・・。
あ~みんなきっと心に蓋をしてるんだろうなって、初めてその時実感した。
涙を流しながらもおじいちゃんは、ちょっと明るい声で言った。
「でもね、生きてればいいこともあるんだ。」
そういって携帯電話をこちらに見せた。
待ち受け画面に貼られたかわいい赤ちゃんの姿。
「ひ孫ができたんだよ。」
おじいちゃんはほんとにうれしそうだった。
うわ~、なんていいお話なんだろう。僕は鳥肌が立ちそうになる。
「おめでとうございます!」
僕たちは心の底から祝福の言葉をかけた。
聞きたかった言葉だった。
生きる希望。それを被災者のおじいちゃんの口から聞けたということはとてつもなく嬉しい。
ありがとうおじいちゃん。
おじいちゃんとこなみさんとひろきくんの姿を、記念にパシャリとした。
ついに最後の仮設住宅に着いた。
仙台市野蒜グリーンハウス矢本の仮設住宅は見るからに今までの中で一番規模が大きかった。
いったいどこまで続いているんだろう。
住宅の先が見えなかった。
ここでは白玉団子の代わりにお餅をついてお接待する。
プロレスラーや力士の方、それに仮設の方も一緒にお餅をついていく。
ちらちらと雪が舞い始めた。
なるべく途切れることのない支援によって、被災地のみなさんが少しでも温かな冬を過ごせますようにと願う。
400杯を見込んでカニ汁を作るということは、2つの大鍋共に溢れんばかりに作らなければならない。ぎりぎり足りればいいなと思った。
それにしても味噌が危なかった。全部使ってなんとか両方の味がぎりぎり整った。
今までよりは弱冠薄め。でもこの方が繊細でいいよ~っていう人もいて、僕も一安心。
ここでの運びは距離が合って大変だ。運ぶまではそう思っていた。
ところが距離がある故に、たくさんお話ができるのだ。
ここでもあるおばちゃんからいろいろお話を聞いた。
家でおばあちゃんが待っているから、家を空けることもできないの。
「おばあちゃんはね96歳なの。施設に預けててね、助かったのよ。
私の主人はね、高台に避難して流されちゃったの。
私は車に乗っていて、水に浮いて助かったの。
16台あった車のうち私だけが引っ掛かって助かったの。」
またしても奇跡的に助かった方と出会った。
思った以上に生き残っておられる方々も、壮絶な体験をしておられる。
それに、隣のうちも片親を亡くしている、反対隣も子どもを亡くしているというお話を聞くと、ニュースで聞く死者の数以上に、いのちを重く受け止めた。
カニ汁を家まで運ぶと、「おばあちゃんに会って行って」と言われ中に通される。
96歳にしてはまだまだ若々しいおばあちゃんがベッドに座っていた。
大変喜んでくれたおばあちゃんとおばちゃん。
また来るからね。長生きしてね。
そういって別れた。お二人の写真も撮らせていただいた。
来年、また参加したい。この頃にはもうそんな気持ちが芽生え始めていたし、また来るからって言葉が無責任だとは思わなかった。
ここの仮設に住む子どもたちは、元気な姿を見せてくれた。
カニ汁美味しい美味しいって連呼しながら、何杯もおかわりする子どもたち。
その場で立ち食いしてくれるので、無邪気な笑顔もたくさんもらった。
子どもは宝だなって、改めて実感する。
大人たちも立ってその場で食べてくれる人もここは多く、多くの方と触れ合うことができた。
これで今回のボランティアは滞りなく終了した。
軽く振り返ってみると、天候が異なったことや、仮設の規模の差などから、全てが違う体験をすることができたような気がする。
4回の炊き出しで、それぞれの違った雰囲気を味わうことができた。
あと覚えておきたいのは足りなかったものたち。味噌大鍋1杯に3kgづつくらいいったのだと思う。2回も地元のお店で買い足した。
それにプラのお椀も450くらいじゃ足りなかったので800くらいは欲しいと思った。
その点も踏まえて次回は大目に用意するようにしなければ。
僕の反省は、もっとアウトドア能力がある人になりたいということ。僕って、全然頼り甲斐がないや・・・。
子供たちのちょっとした来年への課題は、笑顔かな。
笑顔を惜しまないでほしい。マスクをしてたって、目が笑ってれば伝わるよ。
君たちの笑顔は、僕たち大人の何倍もの力があるのだから。
その夜は反省会をしてから、子どもたちと一緒にご飯を食べに行った。
ほんとは今日もばらばらで行くはずだったんだけど、最後はみんなで打ち上げがしたかった。
子どもたちと、一緒に力を合わせてなにかをやり遂げたという満足感があったから。
大人は僕一人で、子どもは22名。
誘ったら全員着いてきてくれた。最後の夜くらい牛タンでも食べに行こう。
ホテルから予約の電話をして「利休」に行った。みんなが一部屋に入れたのはラッキーだったね。
いろんな話もした。やっぱこのメンバー最高。
あっという間の被災地での日々だった。
それでも密に関わったからか、とても愛おしさにあふれている。
人づきあいが苦手そうな子が必死に言葉をかけようとしている。
いつも後からついて行くような子が積極的に動こうとしている。
感情をまだ素直に表現できないような子が、出来る限りの笑顔を浮かべようと努めている。
被災地からなにかを感じ取り、人の心に届きますようにと、自分を変えようとしている。
そんな姿を見たからこそ、このメンバー一人残らず僕の思い出に残しておきたいと思ったんだ。
食事をしたあと、お店の外に出た時、全員で集合写真を撮った。
それが僕の宝物。
2013年の幕が開ける。
1月1日。朝からやや胃もたれ。
子供達がみんなが牛タン食べたあとに、年越し蕎麦を買うっていってドン兵衛を買ったのに同調したのがまずかった。
あけましておめでとうございます。
みんな新年の挨拶をしながらも、元日という実感は全くなさそうだった。
僕自身、まさか仙台で新年を迎えるとは思ってもみなかったから。
帰りは東京チームと別々に帰ることになった。
ホテルの前でお別れをする。
みんなと握手して別れた。
またしても長いバスでの帰り道。
渋滞にも巻き込まれ、一時間ほど遅れて浜松の宿「明治屋」に到着。
1月2日。
朝8時出発。あれ?8時になるのに男の子全員が出て来ない。
僕は嫌な予感がした。
「ちょっと見て来ます」
案の定だった。大部屋で全員で寝ていた男の子たちは、誰ひとり起きているものはいなかった。
「起きろ~~~~~~~~~!!!。すぐに準備して下に降りろ~!」
みんなを叩き起こした。
その後先生から大きな雷が落ちた。先日の夜にも財布を出しっぱなして鍵をあけたままお風呂に行っていて軽く怒られていたらしい。
男の子たちはシュンっとなっていた。
僕はそれを見ながらほほえましく思った。
しっかり反省しろよ~ってこっそり笑ってた。
このままいい子だったね~じゃおもしろくないもんね。
びしっと怒られてこその今回の旅だもんな~。
16時半ごろ、無事に新温泉町役場に帰還する。
みんな元気で事故もなかったことが、なにより喜ばしい。
みなさん、お疲れ様でした。
子どもたちへ。
この日のことを、この日生まれた思いを、ずっと忘れずに育てていって欲しいなって思う。
美味しいものが食べるのが幸せ。あ~食べるがいいさ。
ファッションが好きで、かわいい服がたくさん欲しい。あ~お洒落すればいいさ。
でもそれ自体を目的にして欲しくない。
美味しいものを食べたり買い物してお洒落したりして満たしたエネルギーは、誰かのために使われるべきなんだ。
他人に関わることでからっぽな自分の中身も埋まっていく。
人に優しくすることで、自分の心も温かくなる。
誰かを幸せにしたいと努力するものは、きっと自分も幸せになれる。
誰かを幸せにしたい。
誰かのために命を使いたい。
自分じゃない誰か。家族を越えた誰かを。
それが僕らが生まれてきた理由だと思う。
偉そうに何語ってるんだよ。
お前にその言葉そっくりお返しするよ。
そんな声がどこからか聞こえて来そうだ。
被災地を通して子どもたちと向き合ったこと。
子どもたちを通して、被災地と向き合ったこと。
僕は精一杯これから伝えて行きたい。
そして生かせ命の実践をしていきたい。
最後に、今回の被災地支援に誘ってくださった高森先生には言いつくせないほどの感謝を述べ、いったんの気持ちの区切りとする。ありがとうございました。
そして物事の終わりは、新たな始まりへとつながっている。
(合掌)
山地 弘純
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