2014年7月16日
講座No.5 SC援助論5 (家族援助とスピリチュアルケア) 西川みち子先生
これを受けた直後に書いたレポート。
【1、講義前テキスト購読をして理解したこと】
病者の行動は個人の問題ではなく、家族の問題であり、不登校なども家族の問題点に訴えかけるものであり、実は家族の修復のチャンスであるとも考えることができるとわかった。
養育の誤りだとか、誰が間違っているだとか、そういうことではないんだよとも教えてくれる。
十人いれば十という数のたくさんの真実がそこには存在すること。
関係の中で傷ついた人はこれ以上傷つかない癖を身につけてしまっていること。
そういうことを頭に置きながら、この家族の何が悪いかではなく、肯定的側面にしっかり光を当てながら紐解くとよいということ。
問題を暴き誰かを責める方向へ進まずに、凝り固まった状態を動かしてやればいいのだということ。
そうか。問題解決などしようとしなくていいんだな~って思った。
【2、スピリチュアルケアにおいて家族療法的な視点を持つことの意義】
我々は一人では生きていくことなど不可能で、あらゆるものに生かされて生きている。
ワクテルの「私たちの生そのものが、文脈の中に他者と共に置かれたもの」という言葉は覚えておきたいと思う。
スピリチュアルケアにおいて、家族、親戚、友人との関係を回復、和解するということはとても大切なことだと思う。
誰しも全員とうまくいっている人などいるはずもなく、どこかに疎かにした関係があるはずだし、中には大きなもつれを抱え、悩んでいる人もいるだろう。
切れるはずもない血縁関係を切ろうとして苦しんでいる人もいるだろう。
どこにスポットライトを当て、どう動かしていけばいいのか今はよくわからないのだが、関係を調整し、修復していくことのお手伝いをできるとすれば素敵なことだと思う。
多方向への肩入れ、みんなを贔屓するという家族療法はとても優しくて好きな考え方だ。
どちらへも偏らない視点を持つということは、スピリチュアルケアとしても、宗教家としても必須の能力と言えるだろう。
平等ということについて、もっと考えていきたい。
ちなみに仏教の唯識では「自我欲望であるマナ識が転化して平等性智になる」ということだが、今まではなんのことやらさっぱり理解できなかったのだが、なんとなくわかるような気がしてきた。
みんなそれぞれの欲望を抱えて生きている。欲望が悪いというのではなく、それが「自分だけ」というフレームにはめられているから苦しいのだろう。
欲望を大きく広げていくことで平等がみえてくるのということなのかもしれない。
自分の生まれてきた意味や、欲望の生じる意味を考えるとき、愛する人、愛する家族の姿が浮かんでくるのは自然なことなのだろうと思う。
それに気付いていくためにも家族療法を今後も学び続けていくことは大きいと思う
【3、講義をうけて感じたこと】
家族療法はとても興味深い。
なぜなら最近僕の周りに本当に多くの家族問題が見受けられ、それによって苦しんでおられる姿を目の当たりにしているからだ。
まず僕の弟のような存在の家庭の夫婦問題は解決の糸口を見出そうともせず離婚に向って一直線だし、友達や知り合いでも、子どもの不登校で悩み、家族がぎくしゃくしている者が何人かいる。
また自分自身の家族にも問題があると最近思い始めていた。
しかしその違和感や不協和音はどこから来るのか、どう探していいのかわからないものだった。
そしてこのタイミングで、家族療法というものの存在と考え方に触れることができたのは、とても大きいと思う。
まず心の痛みやある種の不協和音と無関係な人などいるはずもなく、家族のもつれた部分を紐とく中で、肯定的側面に光を当てることが大切であるという考え方にはとても救われた。
事例の家族のジェノグラムを作成しながら、自分の家族のことも考えていた。
うちの家族はとにかく押しつけが大きいのだ。
「しなさい」「こうあるべきだ」「こうでなければならない」
これらの強い縛りが家族の中に不自由さを与えていると思う。
失敗を責める傾向も非常に苦しい。
いつしか家族の中ではそういうことに違和感を感じながらも、骨折でいえば悪固まりのようになってきてしまっていた。
ただ、僕が結婚し新しく嫁が同居したことで、麻痺していた痛みが再びぶり返してきたような感じなのが最近の我が家である。
しかし、この時々ある不満や衝突をネガティブに捉えず、今まで隠されていた家族関係という不調和を修正していくいい機会にしたいと思えた。
今までは個人個人が悪い行動を直せば解決すると思っていた。つまり相手をも変えようとしてしまう自分がいる。
ところが家族関係を見直してみると、悪い人などどこにもいないのである、我が家の価値観と、嫁の育ってきた価値観。大きな視点で見てみると、どちらも正しく、どちらも間違っていない。
そんな大きな視点を持ちながら、まず何かを動かす役割を僕が果たせればと思っているところである。
それにしてもなぜ家族の悪い部分ばかり目についてしまうのだろう。
今まで機能不全を起こすことなく家族が一つ屋根の下に過ごして来れたのは、きっと悪いと思っていること以上に良い部分があるからだろうに。
いや、心の奥底ではちゃんとわかっているはず。
それを言葉できちんと表現できるようになった時、僕も少しは家族療法ができるようになるのかな~などと思ってみたりもする。
山地 弘純
最新記事 by 山地 弘純 (全て見る)
- 兵庫県新温泉町飲食店テイクアウト情報☆ エール飯にご協力を!! - 2020年4月20日
- うちは現在アナ雪ブーム真っ盛り - 2020年2月20日
- 仲間が琴浦町にある「東伯発電所」の壊れた風車の視察をしてきてくれました - 2020年2月19日