2014年10月1日~2日
講座No.11 SC援助論11 (サイモントン療法とスピリチュアルケア) 田村祐樹先生
がんのイメージ療法であるサイモントン療法。
同じ病気で、同じ進行状況で、なぜ助かる人と死んでいく人がいるのか。
そんな疑問を調べていった医師サイモントン先生は、希望をもって取り組む人と、絶望・不安の中で取り組む人とに大きな差が生まれることがわかったという。
そして「希望」とともにスポットライトがあてられているのが「執着」。
自分が執らわれていること、クリアにできていないことはなんなのか。
そこを紐解いていくこと。
「もう無理、もう限界。ちゃんと自分のこと見てよ。ちゃんと気づいてよ!」
そう、病気は無意識からのメッセージなのだ。
その人がそのメッセージを受け取らない限り、何度でも病気はやってくる。
そんなことを教わった、今まででも最高の講座のうちの一つだった。
この絵は、ワークの時に僕が書いたもの。
下手だけど、すっごく気に入ってる。
「自分を青。癌を黒。治癒力を黄色。治療を黄緑」でそれぞれのイメージを書きなさいというお題をいただき、5分という時間の中ですぐに浮かんだひらめきのままに書いたもの。
僕は癌になった時、多分全身に大きな不安と恐怖にさいなまれるのだろう。
治癒力は大いなる光がいつでも全身を照らしだしている。
それを受け取れないほどに覆い尽くしている不安、恐怖のバリアを、三人の娘たちと妻がさすってくれることで和らげ無くしていく。
多分そうなんだろうな~と思うし、そうなったらいいな~と思う。
田村先生からも、「癌もけっこう大きいけれど、治癒力がものすごく大きいですね~。それに家族の手でさする姿がいいですね~。温かさが伝わってきます。これは治りそうだ。」と言われ、嬉しかったし、静かな安心感が広がった。
それに多分、この講座を受けた時よりも、今は不安のバリアは薄くなっている。
安心と不安。
夢と絶望。
それらはいつもバランスを取り合っている。
癌で突然増大した不安や絶望を取り除くことにエネルギーを注ぐのではない。
安心や夢を大きく広げることにエネルギーを注ぐのだ。
「きっとうまくいくから大丈夫。
でも、もしうまくいかなかったら・・・
それでも大丈夫!
だってよく考えてみて下さい。
ね、それでも大丈夫なんですよ。」
例え財産を失ったとしても、
例え信頼を失ったとしても、
例え人から嫌われたとしても、
例え身体が回復しなかったとしたも、
例えそこに死が訪れたとしても。
タブー視をやめれば、全ては大丈夫な世界に変わる。
このサイモントン療法は、癌、病気の治療だけでなく、生き方そのものを提示してくれた。
(以下は受講直後に書いたレポート)
何で僕はこんなことまで話したんだろう。
そう振り返った時、それはこの千光寺という場所であり、クマ先生の優しさであり、グループの仲間が話しやすい雰囲気を作ってくれたことの全てが合わさったからだと思う。
今回のワークは、今まで以上にお互いの深い部分をさらけ出し合えたということがとても嬉しかった。
また仏教を学んだものの、リアルといまいち繋がりきれていないと感じていた僕にとって、サイモントン療法は隙間だらけの僕の宗教観の埋め合わせてくれるものだった。
今まで僧侶として人と対峙してきて、安らぎとか癒しとか言葉を並べては来たけれど、「大丈夫」という素朴でとても大切な言葉を掛けてあげたことがあっただろうか。
そうだった、忘れもしない、僕が不眠症で一番辛かったときに母から言われた言葉。
「大丈夫。心配しなくてもいいよ。」
あの時、この言葉があったから、きっと僕は頑張ることができたに違いない。
今こんなに元気にいられるのも、その言葉があってこそだとしみじみ思う。
「だいじょうぶ。」「だいじょうぶ。」
この言葉って思っている以上に大きな言葉だったんだな~。
スピケアの学びが進むにつれ、あきらかになってきた我が家族の問題点。
それは不安や恐れが強すぎること。
実はこのサイモントン療法を受講している最中に、父が入院したとの連絡が入った。
先日より高熱で倒れていた父の影響で、特にヒステリックなほどの心配をする祖母を中心に、我が家は大きな不協和音を奏でている。
特になってもいないことの取り越し苦労は得意中の得意である。
もちろんそんな家庭で育った僕も例外でなく、同じように不安の渦に巻き込まれてしまうのだ。
たとえそれが病的な心理だとわかっていたとしても。普段はあまり見えなくて良好な状態にあるのだが、なにかトラブルや病気などに見舞われると決まって姿を現すもろい家族関係。
ぴりぴりして、怒鳴って、責めて・・・。
それにしてもタイミングだと思う。この講習が今あってよかった。
そうでなければ父を放置してきた後ろめたさも相まって、不安で不安でたまらなかっただろう。
「山地さん、お父さんの病気はきっと大丈夫。ちゃんと治るから大丈夫。でももし治らなくても、それでも大丈夫。」
そう先生が僕に向けて言って下さっているようだった。
そうなんだ、よく考えれば僕はもうどんな出来事が訪れても大丈夫なんだ。もう受け入れる準備はできているじゃないか。もっと自分を信頼しよう!
その言葉がすっと僕の心に馴染んだ。
病気は無意識からのメッセージ。
何かを父に伝えているのだろう。
そして、なにか僕にも伝えたいことがあるのだろう。
もしかしたら本当の調和がとれていない家族の循環をよくしていくのは今なのだというメッセージを僕は受け取る。
そしてそれを動かしていくのは、僕なのだと。
例えば執着。これを離れることは仏教の命題であるのに、僕も、そして家族も全くできていなかったのだと気付く。
「~しなければならない」「~すべき」というコントロールさえ執着だったのだと知ることができた今、少しづつでもその感情を手放し、言葉を手放したい。
6月の講座で「~ねば」はねばねばの納豆感情。
「~べき」はべきべきの骨折感情。
それを思い知らされたところだったが、さらに今回その理解が深まった。
信頼できていないことから不安は生まれ、それがコントロールへ繋がるという構造の理解。我が家の家族は、もっともっとお互いがお互いを信頼し合うことから再構築したいと強く思う。
僕にとって大切な家族。
改めてその存在の大きさがわかったのもこの二日間の収穫だった。
クレヨンで書き上げた絵。
死のセッション。
導かれるかのように言葉を発したグループワーク。
僕の中にあるものは全て家族だった。
そうだ、僕は家族が大好き。
だからこそもっともっと循環のいい、調和のとれた家族になりたい。
「金婚式まではぜったい一緒にいようね」と約束した妻。
結婚したての頃、僕に先立たれるのは絶対に嫌だとはよく言っていた彼女。僕なしでは生きていけないと言った彼女を残して死へ向うことが、僕にはとても心配で気がかりだったのだ。
大丈夫。彼女を信じよう。
また、僕に似て神経の細いであろう子供たちが、僕と同じく不眠症になったらどうしようという不安。
それもあの子たちを信じよう。きっと大丈夫だ。
でもヨガで体をほぐす方法だけはちゃんと伝えておこう。
どんどん大丈夫が広がっている。
人一倍大きな僕の不安をいつかきっと大丈夫が追い越して行くと信じてる。
僕にとって最高にいいイメージは大宇宙と一つになること。大日如来に抱かれること。
身も心も元の大きないのちに戻ること。それを死を通じてではなく、生きている今に体験したいのだ。
今回は妻や子供がそのイメージから引き戻し、死ぬ瞬間にはぼろ泣きという結末が浮かんでしまったけど、きっとそれも徐々になくなっていくのだろう。
「大丈夫。死んでも今と同じように見守ることができる。いや、今以上に叡智として見守ることができる。」
その先生の言葉は深く僕の中に刻み込まれた。
僕はもう家族を不安要素にしたりしない。
僕は今まで以上に大宇宙そのものとしてみんなを見守ることができる。
その大宇宙の働きの中でみんなを支えることができる。
うん、そう考えると、死さえも怖いものではないって気がする。
きっと大丈夫だ。
僕の学んできた深遠なる大乗仏教に、素晴らしきサイモントン療法が合わさって起きた化学反応。
僕の中で今、「大丈夫っ教」が熱い。
「きっとうまくいくから大丈夫。
でも、もしうまくいかなくても・・・
やっぱり大丈夫。」
そうだよね☆
山地 弘純
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