2014年9月16日
講座No.9 SC援助論9 (密教実践から見たスピリチュアルケア) 麻生祥光先生
これを受けた直後に書いたレポート。
【1、密教の考え方、捉え方を自身の活動にどのように活かせるか。また自身の活動と共通している点、異なる点】
僕自身、僧侶として日々活動しているのだが、密教と仏教の違いにいまいち線引きすることができず、とても悩んでいる。
総合的に様々なものを包括しているとはいえ、多分檀家の人に布教しているものは仏教いやそれ以前の道徳止まりなのだろう。
ただ最近それではいけないという思いにかられ、独自の密教的スピリチュアルケアを構築したいという意欲が湧き出している。
この度のテキストであった松長有慶先生の「大宇宙に生きる空海」、そして「密教」「理趣経」も愛読書である。
またそれ以上に三井英光先生の「理趣経の講和」がとても心に響くのであるが、難解で自分のものにするにはまだまだ時間がかかりそうである。
真言宗の大日如来、曼荼羅の宇宙観は大いなる優しさに溢れていると思う。
「僕は悪い事を繰り返してきたどうしようもない人間です」とか、「私にはこれっぽちも信仰心というものがないんです」という人たちに、世間の外れ者ともいえる外金剛部の諸尊が、「あなたも仏なのです」と言われ歓喜したように、曼荼羅世界に必要な存在として抱かれた境地を体感させてあげられるとするならば、どんなに素敵なことだろうか。
現代は自己啓発が様々な方面から発信されており、無秩序カウンセラー時代とも言われているようで、ネットで検索してもさまざまなアプローチがなされている。
そんな中、最近我が寺を訪れケアを望む人の中に、自己啓発系に疲れ果ててしまった方がかある。「求めても求めても得られなくて苦しいんです」とか、それとは逆に「求めれば手に入るんですが、するとどんどん欲しくなるんです」といったものもある。また「楽になったように思ってたのにかえって苦しくなってしまいました」など、一人ではなく数名が同じような時期に来られたのだ。
主観全盛だけに、とてつもない強さが求められるのだろう。そんな時、「我々の存在は大きないのちの中に遍満しているものですよ」という密教的世界観をもっともっと伝えることができたならば、少しは楽に世の中生きてもらえるだろうにと感じさせられる出来事だった。
「絶対自力」や「すべては自分次第」という言葉など、自身にのみ責任が問われ、すべてを自身の考え方次第とすることは、その通りなのではあろうが、逃げ道をなくされてしまうととても苦しいものだと思う。
「大切なのは自力他力法界力の三つだからね。」と密教の三力を伝え、自己の縛りを緩めてあげることも必要だと思う。
また、不登校、引きこもりなど無気力な子どもが増えている実態に、夢や希望を持たせようとするプログラムにも様々なものが見受けられる。
もちろんそれも素晴らしいことだと思うが、まずは大日如来の創造の大意欲を感じられるよう、自我を広げるアプローチも必要なのではないだろうか。
大きないのちの創造の息吹に逆らうことなく向かわせてあげることこそ、子供たちの生きる気力を高めることになるのではないかと感じている。
そういった逆から見る発想ができるのが密教を修した者の特権だと思うし、今の流行とは違ったアプローチで子どもたちにかかわることも可能だと思う。
また「自由」に対してもそうだ。人とのわずらわしい繋がりを断ち切って行くのが自由だと思う人が多いし、僕自身も最近までそう思っていた。しかしそんな思い込みはかき消される。
人との繋がりを大切にし、水や空気、動植物とも融和し、あらゆる大宇宙のネットワークに繋がり、自分の大いなる可能性や自在性に開けることこそ真の「自由」なのだということを教えてくれるのも密教なのだ。
まさに「一切の顛倒夢想を遠離」し、「阿字」に帰入することが苦しみをやわらげることは疑いもない。
しかし、自他の対立のない世界、仏の世界に瑜伽するべく誘導するのが我々の使命だとするならば、どういった実践的アプローチが必要なのかという点はまだまだ発展途上だと感じる。
秘密であることに甘え、学ぼうとせずに来た僕自身も恥ずかしく思う。今後は、阿字観、密教的ヨーガ体操、御詠歌による音楽療法、さらには密教的スピリチュアルケアのセミナーなど、まずはできるところから実行に移して行きたいと思う。
学べば学ぶほど密教に魅かれ、密教的活動と僕自身の活動とに異なるところなどなにもなく、これこそが全てであると思う。もっと深め、もっともっとリアルに繋がって行きたい。
【2、講義を受けて感じたこと】
「冒地(悟り)をえるのがむずかしいのではなく、密教に出会うことが難しいのだ。」
この言葉は知っていたが、改めて先生の口から聞いたとき、とってもすごい言葉だったのだと実感した。
悟りを得ることよりも難しいという密教に僕は出会うということができたなんてすっごいラッキー!って。
もしかして、密教に出会えれば、悟りを得るのはそう難しいことじゃないのか。そう捉えることも違和感なくできた。
今までなら多分、自分の心に響かなかった言葉だろう。
しかしその可能性と手ごたえを自分でも感じ始めた今だからこそ、心強い言葉として刻み込まれた。
阿息観もとてもよかった。やはりまず真言宗の僧侶ならばここを極めたいものだと思った。背骨を積み上げていく誘導もわかりやすかった。
近いうちに必ず本山の阿字観指導者養成講習会に行こうと誓った。また本棚で埃をかぶっている山崎泰廣先生の阿字観の本も、帰宅後より目を通し始めている。
説教、指示がしたくなるのが僧侶であるというのは間違いない。心から聞き上手になりたいと思う。
先生のよく使われるという、「それは自分の尺度でしょ」っていう言葉は、とても響いた。
僕も、他人に価値観をおしつけようとしている自分に気付ける自分でありたい。
「それは自分の尺度でしょ」って。
山地 弘純
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