2014年5月31日
講座No.3 SC援助論3 (臨床実践からみたスピリチュアルケア) 渡邊真教先生
これを受けた直後に書いたレポート。
「人間って言葉になるまでがほんとに大変なんです」
「ザワザワという擬音表現でザワザワを考えて考えてわからなかった。今思えばザワザワを考えるんじゃなくて育てなきゃならなかった」
「ヒアアンドナウ。今を一緒に体験する。」
そんな先生の言葉と、先生の事例に基づく対話記録の検証で、共感についてさらに深めることができた。
またシンパシーとエンパシーについて、区別して考えることを言われた。
どちらも共感という意味の言葉であるが、シンパシーは相手に同化してしまう感覚で、エンパシーの方は相手の気持ちは相手にしかわからないという感覚を残して感情移入していくのだという。
「カウンセリングで重視するのはエンパシーである。」
先生はおっしゃった。
「相手に自己を投影するのではない。わかる~といって自分の体験を人に押し付けてやしないいないだろうか。あなたの気持ちと相手の気持ちは別物だ。ただ我々にできることは、『ヒア&ナウ』、今を一緒に体験するということだけなんだ」と。
相手の身になって理解することはもちろん大事であるということ。それでも自分を見失わずにいつでも自分に戻れる安心感があるからこそ、いったん自分を脇に置き、相手の世界に入り先入観なしについていくことができること。
実はこの第三者の目線は今までも学んでいたが、今回シンパシーとエンパシーの話でさらに理解が深まった。
実は、先日生まれた子どもに付けた「亜依」という名前はそんなイメージで名付けた、亜熱帯のように熱帯の手前という意味を持つ「亜」。相手の世界に入り寄りそうという意味の「依」。先生も逆転移の一歩手前が一番セラピーのチャンスなのだとおっしゃったが、その言葉を子どもの名前を通じて考え続けたい。
そんなどうでもいいことをこのレポートに書いていいのか迷ったが、後々自分で読み返す時に欠かせないことなので記しておこうと思う。しかしそんな名前の重圧が、機能不全家族の象徴とならないように押し付けないようにしないとな~って思った。
『機能不全家族』。
初めて聞いた言葉だった。自分に重ねてみると、僕はまさにアダルトチルドレンが当てはまる。
先生は「僧侶や学校の先生などに多い」とおっしゃったが、とても納得できる。
アダルトチルドレンは「周囲が期待しているように振舞おうとする」「何もしない完璧主義者である」「表情に乏しい」。
この辺りはまさに当てはまる。
「~してはいけません」「~しなさい」という強いコントロールの中で育った僕は、自分より人の顔色を見ているのだと改めてわかった。
それによってもたらされる「~せねば」という強迫観念に潰されそうになることがあった。
その最も大きなものが「お寺を継がねば」ということであったことは間違いない。
「ねばねば症候群」と確か先生は表現されただろうか。うちの家族もそのあたり息苦しいものを感じる。それでも機能はしてるよな~となんとなく思う。
「連鎖を断ち切る子どもの力の事例」の中で、クライエントの言葉に響くものがあった。
「いっしょだった。いっしょだったんですよ。みんなおばあちゃんがやっていたんですよ。あ~ぁ」
「そうなんだ、繰り返してるんですね。なぁんかなぁ~、お母さんも、きっと同じ思いをしたんですよねぇ~、そっか~」
断ち切れない連鎖。
だがそれを自分から気付けたクライアント。
そしてそこにもっていくカウンセラーの傾聴の姿勢。
ふと気付く。
なるほど、きっと父も、強いコントロールの中で育てられたに違いない。お寺の息子として人の模範とならねばと、自分の欲求を押し殺してきたに違いない。
そう置き換えることができた。
そして修正して生きていくことに人生の意味があるのなら、僕がこれからしていく子育ては、ねばねばからの脱却が人生の宿題となるだろう。
まずは自分自身の心を解放し、また子どもたちの心の解放ができたらいいなと思う。
不意に以前父が言っていた言葉を思い出した。
「父と母が大声で喧嘩するのを聞いて育って嫌だった。だから自分たちはそうしないようにしようとしてきたつもりだ」と。
そうか、父も修正の人生だったのか・・・。
僕の心はどこへ向おうか。同じ僧侶をするにしても、ねばねばしてない、澄み切った生き生きとしたエネルギーを放ちたいと思う。
山地 弘純
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