2014年5月8日
講座No.1 SC援助論1 (仏教実践からみたスピリチュアルケア) 大下大圓先生
これを受けた直後に書いたレポート。
「私に仕えたいものは病者を看護せよ」
律蔵大品の中に書かれているお釈迦様の言葉。この言葉は痛いなと思う。
多くの坊さんはこの言葉をかみしめてみる必要がありそうだ。
「僧侶は拝むのが仕事だ。」
「スピケアなど僧侶とは専門外だ。」
そういう方も大勢おられるので、その言葉に対する反論としては、これ以上ない言葉と言えるかもしれない。
なにしろ逆読みすれば、看護もできない人はお釈迦様の弟子たる資格、僧侶である資格がないと言われているようなものだから・・・。
「そんなの勉強してどうするの」という周囲の声が気になるのは、自分が胸張って返せる確信ある答えを持っていなかったからで、今回この言葉を知ることができたのはとても大きいことだった。
また、僧侶であるにもかかわらず自分の信仰心に疑問をもっていた僕にとって、大下先生の示した日本人の宗教観の図は、自分に納得を与えてくれた。
そう、僕にだって信仰心がないわけじゃないんだ。古来より日本人として組み込まれている遺伝子の力によって、このおおらかな宗教観がなりたっているのだとしたら、僕のこの感覚はむしろ自然なものなのではないかと思えた。
宮参りは神道、結婚式はキリスト教、葬儀は仏教。人生の節目を統一感ない宗教により通過していく日本人。
それってなんだよ。おかしいじゃないか。そんな許せないかに思えた矛盾がすっと消えて行った。
外国の方々からすると滑稽だろう。でもそれが宗教で戦わない日本の素晴らしさとしてここにあるってことには、逆に胸張っていいと思う。
大下先生との出会いは、実は15年近く前に遡ることになるが、専修学院でスライドを使った特別講習をしていただいた時のことだ。
介護施設でのおじいちゃんとの関わりについて話され、生まれた家に帰った時の写真、そして「生きててよかった」の言葉に感動し、今でも僕の心に鮮明に刻み込まれている。
その時大下先生が、「千光寺に来て、一緒にやりませんか」と、専修学院生みんなに誘いをかけられた。
僕はとても行きたい気持ちになったが、その時はまさになりたての不眠症に苦しみ、自分さえ助けることができていなかったため、踏み出すことができなかった。
時を越え、僕が不眠症という一つの大きな試練を乗り越えた末にここに繋がったことが、すごく神秘的に感じる。
回り道したってちゃんと繋がっているんだって、とても嬉しかった。
「どうせ自分なんていなくても」
そんな不眠症時に思いがちだったこと、自分を愛せているんだろうかという自問の答えもいただけた気がする。
山口達彦先生の言葉である。
「愛の反対語は憎しみではなく無関心であるという、つまり愛とは他者に対する限りない関心のことである」
僕は不眠症になるまで自分自身に無関心だったのかもしれない。
まさに上辺だけ、体裁だけを気にして生きてきた気がする。
でも今、自分自身を他者に見立て、とことん見つめようとしている自分自身を、愛していないわけがない。
そう思うことにする。
自分を愛せるようになったから、他者へ関心が向うのかもしれない。僕の中から本当の慈愛が生まれればいいなと思う。
「自利利他」。
「生かせいのち」。
実践していければいいな~と思う。
「私はこういう気持ちでスピリチュアルケアをしています、と答えれるようになって欲しい」
この大下先生の言葉も、僕にずっと語りかけ続けるだろう。
山地 弘純
最新記事 by 山地 弘純 (全て見る)
- 兵庫県新温泉町飲食店テイクアウト情報☆ エール飯にご協力を!! - 2020年4月20日
- うちは現在アナ雪ブーム真っ盛り - 2020年2月20日
- 仲間が琴浦町にある「東伯発電所」の壊れた風車の視察をしてきてくれました - 2020年2月19日