2014年11月11日
講座No.12 SC援助論12 (ケアの哲学) 西平直先生
これを受けた直後に書いたレポート。
我執性から離れるお話を聞いた時、まさに仏教だと思った。
宗教アレルギーの方々のために、あえて宗教を語らないという先生の方針とお聞きしても、やはり仏教であるとしか思えなかった。
「我々の姿を含む全ての現象は空であり、無我である。
本当の自我とは大いなる我。
その大いなる我は様々な表象として姿を変えながら流れ続ける。
大河の流れの如き我より汲み上げられた一すくいの水である一人一人の命。
そこに隔たりなどない。
ところが汲み上げられた途端、大いなる生命との繋がりを忘れ一人で存在しているかのように錯覚し、周りとの垣根を強化することに没頭し同じ水であるという価値の平等を忘れ、正だの悪だの対立を深め、いつしか飾り立てた瓶が割れてしまう恐怖に脅えている。
肉体ごとに命が一つ一つ境目があるわけでなく、それは無我であるのだと、自我という妄念を解き放った時、苦しみを楽しみに変えることができる。
自分とは自然の分身であるという本性に還り、対立のない溶けあった世界、大いなるいのちの流れに逆らうことなく身を委ねよう。」
僕が今まで学んできた真言密教の理解を自分なりにまとめるとそんな感じだろうか。
そして先生の語る全ての言葉が、僕の宗教観の中にストンと収まった。
宗教的な部分から離れてここを語ろうとして下さるからこそ、リアリティーとして吸収されるのだろう。
そしてスピリチュアルケアとは、自我の執着に縛られない関係性のやり取りであり、自我の執着を離れようとすることを助ける働きであること。
またケアする側もスピリチュアルになるという定義を教えていただいた時、迷いの雲が晴れた気がした。
僕は真言密教でスピリチュアルケアがしたい。
これまでは僕の中で密教的ケアの実践はまだまだ未開発の領域に感じていたのだが、教理そのものがスピリチュアルになることだとわかった今、僕は変わらず自分の悟りへの道を歩めばいい。
しかしその悟りという自他の対立を越えた境地に至るために「相互供養、相互礼拝」など多々なる道が多くの僧侶方から示されてはきたものの、それはどこか抽象的であり具体的にどういう事なのか教えて下さる方は今までいなかったように思う。
「傷つきやすい〈わたし〉の全存在を掛けた出会い。その出会いの〈ゼロポイント〉から始めた関係は、それを通らなかった関係とは全然違う。」
「私たちが、どれほど相手に対して開いているか。防衛的な固さを解きほぐし、傷つきやすいまで(ヴァルネラブルに)やわらかく相手に対して開いているか。どれだけ、相手と共感し合い、響き合う準備ができているか。」
これらの言葉を目にしたとき、体中に震えるような感覚が走った。すごい。まさにこれが相互供養相互礼拝の注釈に違いない。
西平先生が自らの言葉で突きつめていく感覚は、ヒリヒリとした今この現実へと誘う。僕が使ってきた借り物の言葉に、中身を注入することができるような気がする。
スピケアの講義を進めてくるうちに、我々のやっかいな癖は、不安や恐れ、傷つきたくない自らを守るためのものだとわかってきていた。
僕自身の嫌で嫌でたまらない癖も、傷つけないように守ってきた防衛だったのだなと。
だからこそ自分でその癖を不快に感じるにもかかわらず、直すのは難しい。
傷つきたくない。剥き出しの自分をさらけだすのが怖い。
だが本当に繋がるというのは傷つきやすく無防備なところまで開放するということなのだなと頭では理解できた。
無心の3段階もとても興味深い。これは「有る」とか「無い」とか、「内」とか「外」とか、「善」とか「悪」とかの対立概念の中で、そのどちらにでも自由自在に行き来でき、やがてはその融合へと繋がる道筋として示せるものだと感じた。
自分を俯瞰してみることを先生は「離見の見」とおっしゃった。これもまさに仏教の観察と通じる。
なんだか先生の講義を聞く上で残念に思ったのはまっさらな聞き方ができなかったように思うこと。
すべて自分の宗教観と切り離してお話を聴ければもっとよかったのかもしれないが、僕は積み上げてきたものを一旦壊すのを怖がっている。
人は自分に都合のいい情報ばかりを取り入れ、その他はシャットアウトしているという例に漏れないのかもしれない。
とはいえ、僕にとってかけがえのない学びとなったことは間違いない。
「しかし、初めから助けることなどできないと冷静な(冷淡な)人に私はケアをお願いしたくありません。助けたい、でも本当は助けることはできない。その事実にそのつど直面してくれる人にお願いしたいと思っているのです」
この先生の言葉も僕の心をがっしりと掴んで離さない。
なんだか涙が出そうになってきた。これって人生そのものなんだろうな~と思う。
思いが強いほど打ち砕かれた失望は多い。
それでも思いを弱めたり凍らしたりすることなく、また立ちあがること。
何度でも。
感動的だった西平先生のこの講義以降、僕は事あるごとに自分にささやき、励ましている。
「傷付くことを恐れないこと」。
山地 弘純
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