五眼の世界観のように、たまにゃ「想念」も語るさ~。
でも、いつも僕の投稿を見てくれている人はわかる人もあるかもしれないけれど、あくまでも地に足をつけた「私」の日々の「実践」を大切にしてる。
何をしているかというと「決めつけない」「押し付けない」ということ。
これが僕にとってこの世界での大きな実践なんだ。
とくに夫婦のパートナーシップ、それ以上に子育てにおいて恰好の実践の機会となる。
自他の心の境界線を侵さない。
これはとても大切なこと。
なのに、ここをオセロのように白と黒がひっくり返そうとしあっている状態が、この世界には見える。
人を変えることはとてもおもしろい。
でもそれはこの壮大なゲームの中に隠された中毒性のあるトリックのようなものではないだろうか。
お互いの心の違いを認めず、相手の心の境界を侵食し、踏みにじろうとする行為は、きっと争いのもとになる。
僕は戦争の原因の根本はここにあるのではないだろうかと思うことがある。
それが合っているか、ずれているかはわからないけれど、僕はその小さな小さな争いの火種をなくそうと試みている。
戦争をなくすために戦争反対を唱えるよりも、もっとも身近な人の心の境界線を守り、「決めつけない」を実践することが、僕なりの平和活動なのだ。
菩薩たちはそれぞれの修行課題に取り組む。
阿閦如来は菩薩の時に怒らないという道を進むことを決意したという。
僕は決めつけないという道を進む。
決めつけない、押し付けない菩薩だ。
逆に決めつけ、押し付けに反応しない、受け取らないという道を進む菩薩もいるだろう。
僕も後でそちらの道へも行くつもりだ。
でも今は僕はまずこちらを実践中。
もちろん全然できてなくて、妻からはしょっちゅう突っ込まれ、子供の可能性を狭めていることに気づき愕然とすることもある。
それでもこの修行は楽しい。
今まで幼い子供たちに対して、「よかったね」「嬉しかったね」などと決めつけていたところに、意識して「どんな気分だった?」と聞くと、「こちょこちょした感じがした」などと3才の三女が体をくねらせ赤面したように言うのだ。
それを見ながら僕は「あ~確実に世界は広がっている」と感動して満ちた気分になる。
子供たちだけでなく、全ての相手にそれは言えることだね。
決めつけずに聴くことで、その人の心の境界は守られ、その人のクリアな心が保たれる。
そんな気がするんだ。
感謝や我慢の強要、信仰の強制、知識マウンティング。
僕はそれが嫌だったから、決めつけ、押し付けをしたくない。
そして僕自身が誰よりも押し付け、決めつけが激しいことも気付いている。
だからこそ心の広がる無限の可能性に触れて、わくわくするのだろう。
今まで実践してきた災害ボランティアや社会福祉、子供たちへの寺っ子スクールなどよりもよっぽどそれは嘘のない大いなる実践であると、僕は確実に言える。
山地 弘純
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