父母の恩の重いことは、天に極みがないようなものです。
山よりも高く、海よりも深いというどころではありません。
みなさんはこれほどの恩徳に、どうやって報いることができますか。
お釈迦様は詩を綴り称賛の言葉を続けました。
悲愛を持つ母親は、10カ月の間子供と血を分け、肉を分け、その身は重病を感じるようなものです。子の体はこれによって成就するのです。(懐胎守護の恩)
月日が満ち、いよいよその時が至れば、業風が吹き寄せ、体中に痛みが走り、骨節が解体するかのような苦しみで、発狂しそうになり、その身を滅ぼすかのようです。 (臨生受苦の恩)
もしその生まれた子から泣き声が発せられた瞬間には、まるで今までの苦しかったことも忘れたかのように生気に満ちあふれます。初めてその顔を見れば、母の顔は花のように明るく開くことでしょう。 (生子忘憂の恩)
しかし子を養って数年もすればその容姿は憔悴しきってしまいます。
水の如き霜の夜にも、氷のような雪の朝にも、湿ったところに自分は伏せ、乾いたところに子供を回してくれます。 (廻乾就湿の恩)
子供がおしっこやうんこまみれになったり、その衣を汚してしまったとしても、臭いとかきたないと思うことなく手で洗い清めてくれます。 (洗灌不浄の恩)
食べ物を自分の口に含んでから子供に食べさせる時には、苦いものは自ら飲み、甘いものは吐いて与えてくれます。 (嚥苦吐甘の恩)
もし子供の為にやむを得ないことがあれば、この子の為なら地獄に落ちたっていいと、自ら悪業を造ることさえいといません。 (為造悪業の恩)
もし子供が遠くに出掛ければ、帰ってきてその姿を見るまでは、出でても入りて、寝ても覚めてもこれを心配します。 (遠行憶念の恩)
自分の寿命がある間は子供の身に代わってやりたいと思い、死んでからも子の身を守りたいと強く願っています。 (究竟憐愍の恩)
親というのはこういうものなのです。
ですから子供は、親からこれほどの大きな恩徳をうけているのです。
それなのに人は成長するにつれてその恩を忘れ、声をあげ怒鳴り散らし、父の言うことに従わず、母の言うことに怒りを含んでいきます。
嫁ができればさらに見えなくなっていきます。父母には恩なき人のようそむき、兄弟の仲も悪くなり、憎みいがみあっていきます。
さらに妻の親族が来れば家に上げ、精一杯のもてなしをし、部屋で団らんの時を過ごす楽しそうな声が聞こえてきます。
「あ~親しいものを遠ざけ、遠き者とはかえって親しくするなんて」と両親は悲しみにくれます。
父母の恩の重さは天の極みがないほど重いものだというのに。
この時、お弟子の阿難尊者が立ち上がって手を合わせ、お釈迦様の前に進み出られました。
「お釈迦様、これほど重い父母の御恩を私たち出家の者はどうやって報いればいいのですか?」
お釈迦様はおっしゃいました。
皆さん、よく聞いて下さい。
親孝行に在家の者も出家の者もありません。
よそに出て旬の果物を手に入れたなら、持ち帰って父母に差し上げなさい。父母は大喜びでしょう。
これを自分で食べるのはもったいないと思い、まず三宝(仏・法・僧)にお供えしたり、また困っている人に施しをする心が起きるかもしれません、その行為が菩提心を起こさせるのです。
父母が病に倒れたならば、そのそばを離れず、一生懸命親しく看護しなさい。全てのことを他人に委ねることなく、時を計り、機会を伺いながら、心をこめて作った食事をすすめなさい。
親は子供が勧めてくれたものだからと、無理をしてでも食事を口に入れようとし、子供はその姿を見てかえって自分の心を強く持たなければなと思うのです。
親がしばらく睡眠する時には、息をひそめて静寂を保ちその寝息を聞き、眠りから覚めれば医者に聞いて処方してもらった薬を勧めなさい。
日夜三宝(仏・法・僧)に祈って、親の病が治りますようにと願い、常に報恩の心を抱いて、片時も忘れてはなりません。
この時、また阿難尊者が問いました。
お釈迦さま、出家の者もこのようにすれば父母の恩に報いることになりますか?」
お釈迦様はおっしゃっいました。
いや、これだけでは父母の恩に報いたとはいえません。
親が頑ななまでに、「仏など信じない」といって三宝を奉じることがなく、仁なく物を粗末にし、義なく物を盗み、礼なく異性におぼれ、信なく人をあざむき、智なく酒にふけっているならば、子供は強く注意して、正しい道を悟ってもらわなければなりません。
もし未だに悟ることができないならば、因果について説明し、それは必ず未来の苦しみへ繋がっていることを解ってもらい、苦しみから救うのです。
それでも改める気のない親には、泣いてお願いし、自分の食事を断つのです。親も頑なとはいっても、子供が死んでしまわないかと怖れるが故、恩愛の情にひかれ、強く我慢して正しい道に向かおうとするでしょう。それをしないならば親ではありません。
もし、親が心を入れ替え、仏の5つの戒めを守ろうと努力し、仁が生じて殺さず、義が生じて盗まず、礼が生じて異性とよこしまな関係を結ばず、信が生じて人をあざむかず、智が生じて酒に酔うことがなければ、家族のうち、親は慈しみの心をしっかり持つことができ、子供は孝行の心がしっかりと持つことができ、また夫は正しく進み、妻は貞淑に支えてくれるでしょう。
皆が仲良く、敬い助け合い、飼っているペットや虫や魚にまでその恩恵をこうむるでしょう。
十方の仏様から国家の王から庶民にいたるまで、全ての人々で敬愛しないものはなく、悪人の入り込む隙もありません。
これによって、父母は平穏に余生を送り、後には極楽浄土に生まれ変わり、そこで仏を見、仏の教えを聞いて、長い輪廻の苦しみから脱することでしょう。
このようにして、初めて父母の恩に奉ずる者になるのです。
おしゃかさまはさらに言われました。
みなさんよく聞いて下さい。
もし父母の為に心力を尽くして、あらゆる美味しい食べ物、美しい音楽、おしゃれな服、車や家などを贈り、父母が一生楽に遊んで暮らせるようになったとしても、それはうわべだけのもので、信心の心がなければ不幸なままなのです。
仁があって施しを行い、礼式があって身をひきしめ、柔和で恥を忍び、勉強して徳に進み、感情の制御ができ、全てを学ぼうという志で努力しているものでも、ひとたびお酒や異性に溺れたならば、心の隙に入り込む悪魔の手によって、散財しても何も思わず、感情をとろかし、怒りや嫉妬を起こさせ、まじめな気持ちがなくなり、心を乱し、正しく考えることができなくなり、行いはまるで飢えた獣のようになってしまいます。
大勢の人が、これによって身を亡ぼし、家を滅ぼし、主人に迷惑を掛け、親に恥ずかしい思いをさせなかった者はいないのです。
ですから沙門は独身で配偶者はなく、志を浄潔にして、ただひたすら仏の道を進むように努めるのです。
子たる者は深く思索し、よく考慮して、孝養の重要さを知らなければなりません。
その恩はあまりに重く、急がないと報いようと思った時には親がいない、ということにもなりかねないからです。
みなさん、わかっていただけましたか。
おおよそ、このようなことが父母の恩に報いるということになるのです。
この時阿難尊者は涙をぬぐいながら立ち上がり、片膝をついて合掌し、前に進み出てお釈迦様に言われました。
「お釈迦さま、このお経は何と名付けるべきでしょうか。またどのようにして後の世につたえていけばいいでしょうか。」
お釈迦様は阿難尊者に告げました。
「阿難、このお経は父母恩重経と名付けなさい。もし世の中の人々が、一たびこのお経を読誦したならそれだけで乳哺の恩に報いたことになるのです。
もし一心にこのお経を念じ続け、また他の人にも念じさせたならば、まさにこの人はよく父母の恩に報いたことになるのだと知りなさい。
よく念じ、そして行動につなげるのです。
すると、一生の間につくった十悪の罪、五逆の罪、無間地獄に落ちる重罪は全て消滅して、最高の悟りの境地を得ることができるのです。」
この時ここに集まった全ての者が、この説法を聞いて、ことごとく仏法を求めようとする心をおこして、五体を地面に投げ出し、涙を雨のように流して、お釈迦様の足元にひれ伏し礼拝しました。
そしてその場から去った後も、誰もがいい教えを聞いたという歓喜の心がおさまらず、ずっとこの教えを抱いて生きていこうと心に誓ったのです。
「父母の恩重きこと、天の極まり無きが如し」
仏説父母恩重経 (完)
山地 弘純
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