平成22年ももあと数時間で終わるという時、更新中のパソコンがプチっと消えた。下の部屋で家族が見ていた紅白歌合戦の音も消えた。
外ではものすごい勢いで雪が降り続いていた。午後八時過ぎのことだった。
停電か。
僕はブログの更新をあきらめ、真っ暗な部屋を手探りで上着を探す。
方向がわからなくてもたもたしてたら、下から父さんが懐中電灯を持って上がってきてくれた。
ミルクの瓶を洗っている途中で、真っ暗闇に取り残された奈美。
そんなこと関係なしにすやすやと眠っている望心。
ばあちゃんも母さんも父さんも僕も奈美も、こたつのある部屋に集まってきた。
堀りごたつの中心に灯された一本のローソク。
みんながそれを囲んで座った。
うちは練炭のこたつなので、停電でも消えることはない。
暖かなこたつにくるまって停電が直るのを待つ。
すぐに直るだろうと思っていた。
しかし、熊谷の村中。いやそれだけでなく、町内のいたるところで停電が起きているようだった。
幸い通じる電話をやり取りして情報を集める中で、これは長期戦になると、みんなが思った。
停電の理由が、このすさまじい勢いで降り続く豪雪のせいだということはすぐに推測がついた。
この大みそかだけでいったいどれほどの雪が積もったのだろう。
80センチ近くはありそうだった。
なんでも熊谷の道路に電柱が倒れて、通行止めになっているという噂も聞いた。
ここは完全に孤立してしまったようだ。
今夜の除夜の鐘つきには、きっと誰も来れないだろうと思った。
除雪など、とても追いつかず、空けても空けても降り積もっていく。
それにこの停電で、除夜の鐘つきどころではないはずだ。
僕たちは恒例の「紅白歌合戦」も見ず、僕は「ダウンタウンのガキの使いやあれへんで」の録画もすることができず、ただローソクの明かりを頼りに、ミカンを食べ、話をした。
幸い、ローソクにだけは困ることはない。
しかし、電気がないということは、こんなに不便なことなんだと、改めて思い知らされた。
母さんが、みんなの寝る準備を進めていく。
家中にある湯たんぽをかき集めて来て、ふとんの中に入れた。
今日はお風呂に入ることもできないし、電気毛布もできない。
トイレに行って用を足そうと思い便座に腰掛けると、「ヒエッ!」とその冷たさに一瞬飛びあがる。そんなの前は当たり前だったのに、今は暖かい便座であるものだと体が覚えてしまっている。
炊飯器も機能しない。母さんが明日は土鍋でご飯炊いてみると言っていた。
なんだかんだ言って寝るのが一番と、そのうちみんながうたた寝をしていた。
11時過ぎ、「こんばんわ~」という声で目が覚める。
中3の篤と高2のみさと、社会人なりたての政幸だった。
うわ~、こんな中をよく来たな~と驚く。これで住職と僕をあわせて5人。
「一人が20回くらいづつ撞こうな」
毎年2回づつくらいしか撞かせてあげられないけど、今年はVIP待遇。
しっかり悪いものを払ってくれたまえ、と笑いながら3人に告げた。
外灯も消えている。雪の白さもわからない中、懐中電灯の明かりを頼りに、5人で108つの鐘をついた。
最後の鐘をついた時、12時をやや回っている。
みんなで、「あけましておめでとうございます。」
まさか停電の中、年を越すとは思わなかった。こんなの初めてだ。
3人とも掘りごたつで少しくつろいでいく。
その時、住職がちょうど33年前の事件のことを話していた。いろりの一酸化炭素中毒で、5人の方が重軽傷。そのうち一人が死亡したというお話だった。
地元の神社の新年の宮籠りでの出来事だったそうだ。今まで立て付けが悪かった古い社務所から、新築したばかりの社務所になったのが原因だったらしい。
そんな悲しいことが33年前の今日あったんだよと話す住職の前で、ローソクの火がゆらゆらと揺れているのを見て、まるで怪談をする稲川淳二のようだと、3人は秘かに怖がっていた。
「もうダメだと言われながら、奇跡的に助かったのが、あそこのお宅のおじいさんと、君のおばあちゃんだったはずだよ」と聞き、そこまで身近な話だったのかと驚いてもいた。
3人が帰った後で、僕は近くの熊野権現にお宮参りに行き、帰ってきて寝室に入った。
望心が母乳を飲んでいる。暗がりの中で、僕と奈美と望心は新年のあいさつをした。望心の初めてのお正月は大停電だったと、きっと将来の語り草になるだろう。
望心を寝かしつける前にオムツを替える。電気がないというのはこんなにも不便なのかと、再び強く感じた。新米お父さんにとって、小さなライトの明かりだけで替えるのは手で暗がりで見えなくて、非常にレベルが高かった。うまくオムツを締めることができたか不安だった。
そしてようやく寝床につく。湯たんぽの温もりが、とても気持ちよかった。
こんなにいいものだったんだ、そう思いながらいつの間にか眠りについていた。
朝起きて見ると、やっぱり真っ暗なままだった。
服を着るのも一苦労だった。
朝6時過ぎより、新年の修正会を行う。
正月の3日間、御本尊様の前で檀に登り、住職が御祈祷をする。
僕はその脇で読経を行う。
大般若経というお経を声高らかに読み上げ、お経の本をアコーディオンのようにバサバサ~っと転読していく。
こうして善住寺ではこの一年の檀信徒各家の家運長久、息災延命を精一杯祈っている。
毎年使う大型の電気温風機は使えず、小さな丸型の石油ストーブを使い、堂内の電気もつかないので、ローソクの明かりを頼りにお経の本をたどった。
本来は本堂は暗い場所で、これくらい寒いのは当たり前だった。そう住職は言いながら、手には~っと息をかけた。
二時間弱の修正会を終え、家族そろっておせち料理をいただく。
8時過ぎになると、外からの光が障子通して白く入り込んできているが、それでも部屋は暗かった。
冷え切った体に染みいるような熱々のお雑煮。とても美味しかった。
午前中にはいつもより少ない人数だったが、年頭のあいさつに来られた。みんなの今年の話題は停電につきる。みんなが様々な知恵をしぼり、明かりと温もりを保ったようだ。
ペットボトルにお湯を入れて、こたつの中に入れたり、布団の中に入れたりして寒さをしのいだお話。
寒いから親戚中が一緒になって寄り添って寝たというお話も聞いた。
オール電化のお宅はもっと大変そうだった。ガスで調理ができないので、卓上のカセットコンロで料理をし、ふとんの寒さは、猫と一緒に寝ることで温もりを保ったとか。
かいろを貼りたくったという人もいる。
「備えあれば憂いなし」ということわざが何度も飛び交った。
また、雪かきも大変だった。
1メートルは降り積もっただろう。
とはいえ、住職は除雪j機で正面の道をあっという間に作り上げてしまう。
お参りに来られる人たちのためを思ってのことだが、僕は足で踏んで道を作ったほうが風情があるのにと思いながら、やや不満そうにしていた。
僕は屋根から落ちた雪をスノーダンプで何往復もして取り除いた。
電気を失って、古き良きものを見直すことになった部分と、やっぱり今の便利さを改めて再確認する部分とが混在している。
そういえば、ローソクの明かりの中で篤は携帯電話をいじっていたし、僕はデジカメで写真を撮っていた。
それも風情がなかったな~と思い返して苦笑いした。
昼食も暗い中でいただいた。夕食ももっと暗い中でいただいた。母さんは暗闇の中で魚を焼いていた。昔停電だった時、さんまを真っ黒焦げにしてしまったと懐かしそうに話していた。なにも停電の時にまた魚を焼かなくてもいいのにと、僕は思った。しかし今回はいい感じの焼け具合で焼けていた。美味しかった。トン汁も凄く美味しかった。
食事は目でも楽しむものと言われtるが、ほとんど見えない状態で食べる食事も、集中できていいのかもしれないなとも感じた。普段トン汁に浮いた油を見るだけで油っこさを受け付けなくなるおばあちゃんも、美味しそうに食べていた。
暗い中だけど、みんながたくさん笑った。
なんだかこの停電生活を、楽しんでいる僕たち家族がいた。
こんなに長い停電は初めてだ。しかし大きな災害さえなければ、みんなが停電によるダメージはほとんどないだろう。この熊谷の地に住む人たちは、たとえ一週間くらい孤立してしまったとしても、食料面での心配はいらないと思う。
丸一日が経過した。みんなが復旧をのんびり待っていた。
9時過ぎだっただろうか。突然ふすまの隙間から光が差し込んだ。。
暗くしたままの望心の部屋に、隣の部屋からもれる光はものすごく明るい。
家族みんなが歓声をあげる。
「電気が来たよ~。」
なんだかんだ言って、嬉しかった。
さっそくおばあちゃんはテレビを付けている。
「相棒」のテーマソングの大音響が、今までの静寂を打ち破った。
もう少し余韻にひたらせてよ、と苦笑いするしかなかった。
そして、なんだか寂しいねと、奈美と顔を見合わせて笑い合った。
真っ暗な中での年越し。
こんな経験は初めてで、きっといつまでも忘れることはないだろう。
闇を照らす光と、寒さを癒す温もり。
特にその二つの大切さをしみじみと感じた。
ほんとにありがたい所で僕たちは生活させていただいてるんだな~と。
便利さと引き換えに失ったものに気が付いた方も多いだろう。
停電が浮かび上がらせてくれた、家族がまとまる絆もあった。家族が寄り添う温もりもあった。
2011年は最高の滑り出し。
日々の生活に感謝の心を思い出させてくれたくこの大停電を経て、今年はますますいい年になりそうだ☆
合掌
山地 弘純
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