「こんにちわー」と道端で一緒に休憩したお遍路さんに努めて明るく声を掛けたつもりだった。
僕の挨拶への返事はなく、じっとこちらを見据えると、ボソっとつぶやくように言った。
「いいお袈裟ですね。でも格好ばかりよくてもダメなんですよ。」
なんだか嫌味のある物言いの人だと思った。
僕の首からはおじいちゃんからもらった輪袈裟がかかっている。
もうボロボロなのだが、それは確かに立派なものだ。
僕は居心地が悪く、「お先に」と、慌てて腰をあげる。
急にお袈裟をしているのが恥ずかしくなり、これは僕には不相応なんじゃないかという思いでいっぱいになった。
数日前にお遍路宿で夜な夜な読んだ一冊の本、『弱者の遍路』。
僕はそのタイトルと内容に共感していた。
僕は弱者だ。
専修学院で眠れないといつまでも苦しんでいた時に言われた言葉が蘇る。
「お前は修行生八十名の中で一番弱い。」
弱くてかっこ悪い自分。
僕はそんな自分をただひたすら否定し、嫌悪していた。
だからこそ本の中で何度も出てきた「分不相応」という言葉に、僕の胸の内は激しく共鳴した。
旅はいつしか折り返し点を過ぎている。
多くの参拝客が訪れ活気あふれる五十一番札所の石手寺までたどり着いていた。
僕はお参りを済ませ、ベンチでぐたーっと休んでいた。
時はちょうど正午にかかろうかという頃。
お昼ご飯は日によって食べたり食べなかったりだったので、今日はどうしようかなーと漠然と考えていた。
そんな時、五十代くらいの女性に声をかけられたのだった。
「お食事は済まされましたか。もしまだならお接待させて下さい。」
僕は遠慮することなくこの嬉しい申し出を受けることにし、近くのうどん屋に連れていってもらった。
熱々のうどんをいただきながらその方とお話をする。
僕に対してだけでなく、お遍路さんに幾度となくこのようなお接待をされているとのことだった。
僕はそのことに感謝しながら言った。
「今までにも本当に多くの方にお接待をしていただきました。ありがたく思っています。でも五千円とか大きな金額をいただいた時は、ほんとに受け取って良かったのかなーと思ってしまいます。僕には分不相応ですから。」
伏し目がちに話す僕に、彼女はきっぱりと言った。
「分不相応っていうのは考え方がおかしいですよ。あなたがお遍路さんとして同行二人で歩いていらっしゃるから我々はお接待させていただくのです。弘法大師様が分不相応ということはないでしょう。」
僕はハッとした。
同行二人。この言葉を謳ってこの旅に出てきた僕。
毎日その文字の書かれた笠をかぶり、杖を突いて歩いてきた。
しかし僕とお大師様は切り離されたままだった。僕はいつも自分自分。お大師様との二人三脚として見られているなんて思ってもみなかった。
さらに彼女は続けた。
「だから、あなたも分不相応ではない!」
僕は思わず頭を上げた。
僕の体中に熱いものが走る。
彼女と別れた後、言葉の意味を何度も何度も噛みしめながら歩いた。
そんな僕にお大師様は語りかける。
同行二人という言葉が何を暗示しているのかわかりますか。
あなたは多くのかけがえのないものに包まれている。
家族、親類、友人、ご先祖様と言われる人たち、全てはあなたと共に歩いて下さっている。それに気付きなさい。
吹き抜ける風のささやきに、僕はじっと耳を澄ませていた。
いのちは重いもの。
しかしそれが重荷にならないように、見えない力でそっと支えていてもらっているということに、僕たちはいつだって気付けずにいる。
僕は不眠になって以来、自分は他人より劣った人間だと思っていた。
存在する価値に乏しいのかもしれないと考えたこともある。
様々な命と共に渦巻くこの命の価値は、決して下げることができないものであるというのに。
同行二人。その言葉が輝きを増す。
そう、あなたは一人じゃないよ。
お遍路中だけじゃない。いつだってそうなんだよ。
僕はお袈裟の弛みをピシッと伸ばした。
「一人でいても一人じゃない。」
それが僕の命だ。
そんな禅問答のような言葉が「同行二人」より導かれた僕なりの答えで、それは僕の存在を肯定してくれる。
分不相応でもなければ、なんら劣等感をもつこともないよと。
様々な出会いに守られて、僕は少しづつでも強くなれているのかもしれない。いつか本当の強さが欲しい。
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山地 弘純
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