お葬式の終わりに、親族の挨拶があった。
息子さんが参列者の前に立つ。
おやじは植林するのが趣味でした。
今はまだほとんど成果の見えない木々だけれど、
将来きっと実を結ぶと信じています。
親への感謝と尊敬がうかがえる、しんみりくる挨拶だった。
我が善住寺へも木や花を植えて下さった。
またお寺の襖(ふすま)や2メートルほどの五重塔など、さまざまのものを寄進してくださった。
僕たちは今の自分のことばかりに目が行き、なかなかに人の為に何かをするということができない。
もし何かをしたとしても、自分への感謝の見返りや、自己満足を得たい願望も捨てがたい。
しかし、たとえ自分が明日死ぬとしても、見えない未来のために何かを残したいという思いが、本当にいのちを繋いでいくということだと思う。
「たとえ明日死ぬとしても、今日私はりんごの木を植えるだろう」
これはマルティン・ルターの言葉だそう。
善住寺のヒメコマツや柊や楠の木たち。
火災で全て焼けつくした善住寺。
再興への想いを込めて植えられたであろう木々。
数百年の時を経て、今善住寺のシンボルとして、根を深くし、幹を太くし、葉をいっぱいに広げ、我々を見守ってくれている。
その想いをたしかに受け取り、今度は未来へ自分が託す番だ。
なにができるのか。
未来のために考えたい。