当たり前。 当然。 普通。
僕たちは、その言葉たちを軽んじてはいないだろうか。
先日のいろいろとコメントをいただいた中で、あらためて考えてみようと思った。
意味を調べると、「そうあるべきこと。 道理にかなっていること」とあった。
だとすると、人が死ぬのはやはり当たり前なのだと思う。
それはあるべき姿なのだから。
まさに、「諸行無常」の理を実感する時。
人は明日の日がわからないからこそ、一瞬一瞬を無駄に出来ないと思うのだろう。
必ず死ぬということがわかっているからこそ、ダラダラと生きていてはもったいないと感じるのだろう。
世の中の全ては当たり前なんだよな。
ただ、「当たり前」という言葉を使う中に、どこか傲慢で、思い上がった感情が含まれていないだろうか?
「そんなん当たり前じゃん」
そんな言葉に感じるのは、なぜか負のニュアンスだ。表面にややイラッとした感情が貼り付けられている。
時に、なんともいえない嫌な思いを突きつけられる。
「当たり前」って、もっと素晴らしくて、神秘的で、それでいて過酷で、覚悟のいるものなのだと思う。
軽々しく使っていいものじゃない。
「普通」で「当然」で「当たり前」の中身には、虚しく生きていては気づけないのかもしれない。
無機質な「当たり前」の言葉を放たないでくれよ。
「わかりきったことを聞くなよ」って感情を込めないでくれよ。
その思いには理由がある。
白血病で亡くなった、ある中学生の女の子の詩を読んだ時、僕の胸に強い痛みが走った気がした。
「私は・・・
普通の高校生になって、
普通の大人になって、
普通のお嫁さんになって、
普通に年をとって、
普通に死にたい。。。」
また、愛する妻と長女飛鳥ちゃん、そして妻の胎内に宿る小さな命を残し、癌でこの世を去った井村和清医師の詩も忘れられない。
「 あたりまえ
こんな素晴らしいことを みんなは何故喜ばないのでしょう。
手が二本あって 足が二本ある。
行きたい所へ自分で歩いていける。
手を伸ばせばなんでも取れる。
音が聞こえて 声が出る。
こんな幸せがあるでしょうか。
しかし誰もそれを喜ばない。
あたりまえだと 笑って過ごす。
食事が食べられる。
夜になるとちゃんと眠れ そしてまた朝が来る。
空気が胸いっぱい吸える。
笑える。
泣ける。
叫ぶことが出来る。
走り回れる。
みんなあたりまえのこと。
こんな素晴らしいことを みんなは決して喜ばない。
そのありがたさを知っているのは それを失くした人だけ。
なぜでしょう
あたりまえ 」
これらの詩から伝わってくる言葉のジンジンとした響き。
「普通」ってこんなにも重いんだ。
「当たり前」ってこんなにも深いんだ。
涙が出そうになる。
死んでいった人にとっては生きてることだけで当たり前なんだ。
日常のすべてが当たり前なんだ。
感謝。。。
でもこの詩は、「あなたは恵まれてるんですよ、感謝してくださいね」ってなことじゃないと思う。
もっともっと感じて欲しいって訴えてる。
当たり前って何?
普通って何?
僕は思う。
驚くほど奇跡的な導きでつながった瞬間がここだとするなら、
今、目の前に精一杯ぶち当たるしかない。
だから当たり前っていうんだろ?
失くして初めてわかる当たり前。
時間が経つとともにわかっていく当たり前。
どれもこれもが当たり前。
穏やかな何事もない日常に感謝するのは素晴らしいことだ。
でもそれだけでは足りない。
すべてを受け入れなければならない。
嬉しいことも。悲しいことも。
たとえ病気が見つかったとしても。たとえ愛する人を失ったとしても。
たとえ自分が醜く老いていくとしても。
それは世の中のあるべき姿なのだから。
苦しみの現実に直面しても、悲しみに突き落とされても、それでもなんとか受け入れようと努力する人が、前に向かって行ける。
当たり前なんだ。
後ろに当たっていてもだめだ。
前に当たっていかなければ。
たとえどんなことがあったとしても。
前がある限り。。。
うん、わかってる。
それがなかなかできない生き物だってことも。。。
立ち上がれる強さがほしい。
受け入れられる大きさがほしい。
誰もが願うこと。
あるべき姿に変わり続ける世の中。
あるがままを受け入れられない人間たち。
それでもみんな、変わり続ける今に心が追いつこうと、
必死でもがいている。
山地 弘純
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