悔しいって言えたこと。
それは僕にとってほんとに大きかったと思う。
自分への悔しさが、あげまん道への羨ましい、そして妬ましいという気持ちへと変わっていたんだね。
この悔しさを認めることって、とっても大切だな~って僕はしみじみと実感した。
どんな感情でも全て不要なものはなくって、それに蓋をしてしまうからややこしくなるんだな~って。
ダメだって思ってた。悪いことだと思ってた。
悔しい、羨ましい、妬ましいの気持ちをさらけ出すことが怖かった。
さらけ出していいんだよね。
剥き出しにしていいんだよね。
そこをねじまげて、無理やり
「悔しくなんてないし、羨ましくなんてないし、妬ましくなんてないし」 と白々しくそれを見ようとしてみたり、
「悔しいとか羨ましいとか妬ましいと思っちゃダメ。美しい心でいなくっちゃ」 と聖人気取りしちゃうから、
僕は本当の気持ちを取り逃がしてしまっていたんだろうね。
「羨ましい人は自分の未来の姿だとして見るようにする」という思考法も素敵だけど、それをコーティングする前に、ちゃんと自分の気持ちをまるごと認めてあげることが大事なのかな、とも思った。
きっと途切れることなく訪れる「今」という瞬間は、終わりのない「道」の上にあるもので、今の感情が最終結果ではなくって、いつもその先へと繋がっているんだろう。
道なんだ。
全てその先へと続いてるんだ。
たとえ今のこの感情がどんなものでも、きっとその先の何かに繋がっているから。
だからどんな感情をもっていたって大丈夫だよね。
誰かに「そんな感情を持つことはダメだ」って言われようとも、
誰かに「そんな感情を持つことはカッコ悪いよ」って言われようとも、
そして自分自身の理想とはかけ離れてしまっていたとしても、
自分の感情に嘘付いたり、ごまかしたり、引っ込める必要はないんだろうね。
だって途中なんだから。
嫌いっていう感情だって、好きになってる途中だから。
妬ましいっていう感情だって、素晴らしいって思えるようになってる途中だから。
悔しいっていう感情だって、嬉しいに向ってる途中だから。
今、ありのままの感情をちゃんと認めようとしないで、その反対にある感情へとひっくり返るわけもないんだろうね。
他人に向けて嫌い、妬ましい、悔しいって攻撃のエネルギーを放つよりも、自分のその感情を認め、ただ愛おしく見守ってあげることが、今を大切にするっていうことなのかなって、そう思った。
だからこれからは感じたことを偽りなく表現していこう。
自分がどう感じたのかを記していこうって思った。
僕には子宮がない。
だから女の人ほど感じる力が豊かではないのかもしれない。
クセ付いた損得の思考がそれを覆い隠そうとしてくるし、
「○○なのです」とかいう風に、俯瞰したままで高い所から言葉を放ってしまがちにもなる。
だけどこれからは言葉にならない響きを頼りに、下から上へと丁寧に感じていきたい。
それを丁寧に言葉にしていきたい。
いつしかそれが僕の中の小さな誓いになった。
統計的にこういう結果がでてるからとか、
科学で証明されてるからとか、
あの偉い先生がこう言ったからとか、
そういうことで他人から決めつけられたくないんだ。
それよりも、まず自分の感覚を信じたいと僕は思うから。
もしかすると、僕が悔しさを味わうために現象として引き寄せたのが、「あげまん道」っていう存在なのかもしれないね。
(つづく。次回最終回)
山地 弘純
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