ドラゴンボールとかの見過ぎかな。
修行って何か特別なことをすることだと思ってた。
だけど最近思ったのは、逆に何もしないってことが修行なんじゃないかなって。
僕は今、とことん何もしないことに全力を尽くしてる。
全ての「行為」をしようとすることをやめてみている。
努力は裏切らないとか。
体験に勝るものはないだとか。
頑張った分だけ成果があるとか。
無思考からはなにも創造しないとか。
もうそんなマインドの嘘には惑わされないよ。
何もしない。
何も役に立たない。
何の意味もない。
そんな中で浮かび上がってくる価値こそ否定できない価値なのだろうと思う。
「まずは自分のために。」
ようやく最近の流行りであるその言葉が、わかってきたような気がする。
まずは自分のために何もしない。
価値を出そうと何かしようとしない。
いや、仕事はしてるけどね。
でもなんにもしないで瞑想する時間を増やしてる。
心屋さんの言う「存在給」もこういうことだよね、きっと。
自分は素晴らしい。
なにかができることが素晴らしいなんて、スポットあてていないかい。
自分は素晴らしい。
笑顔がいいのが素晴らしいなんて、スポットあてていないかい。
能力も魅力も外側のもの。
内が光れば勝手に光るよ。
まず自分の中心。
自分の肉体とか外側ばっか先に満たそうとしてんじゃねえよ。
自分の心とか嘘つきなもんを先に満たそうとしてんじゃねえよ。
まず一番内側だよ。
そしたら愛なんて注がなくても勝手に溢れだすから。
思考しない。
行為しない。
御自愛もしない。
止めようとすると止まらないけど、観照してれば止まるんだ。
唯一することといえば、呼吸と見守ることかな。
なんか自分の価値が光り出してきたら、勝手に四無量心も溢れだしてきた気がする。
※四無量心とは、慈悲喜捨の4つの心のことです
慈 相手の幸せを願う心。
悲 相手の悲しみ苦しみを分かち合いたいと思う心。
喜 相手と一緒になって喜ぶ心
捨 相手に転移(投影)しないで平静にそばにいる心
まずは自分のために何もしない。
これが仏教の「止観」の「止」にあたるのではないだろうか。
「ええんかそれで。お前毎日何して生きてるんだ。」
「う~ん、息してる~。」
このやり取りって核心ついてるよね。
呼吸を見守ると、いのちがわかるもんね。
そこに「観」、つまり観照が深まると、意識のチャンネルが変わる。
瞑想しよう
山地 弘純
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