徳島県にある鶴林寺もまた四国八十八カ所有数の難所だった。
途中で食事する所もない、歩き遍路にとっては孤立したお寺だった。
みんなそんなことは下調べしてわかっていて、宿からお弁当を作っていただいたり、お店でパンを買ってきていたりと昼食は持参している。
僕は札所で働く知人からいただいたお弁当を持っていた。
さらには、きつい山登りに入る前のふもとの村で托鉢をしたところ、おにぎりと菓子パンをお接待していただいてもいた。
しかし、二十才くらいの若い一人の男の子は、お寺周辺で食事を取ろうと思っていたらしく、「この辺に食べる所ないですか」と皆に聞いて回っていた。
どうやら朝ご飯も食べていないらしく、かなりぐったりした様子だった。
山を下るとなると、夕方までも我慢しなければならない。
僕はすでに昼食を済ませていたが、お接待されたおにぎりと菓子パンには夕食にしようと思い、たまたま手をつけていなかった。
「こんなものでよければお腹の足しにして下さい」そういって差し出すと、それはそれは大変な喜びようだった。
「何か是非お礼をさせて下さい。」
彼は何度もそう言った。
一心な彼に対し、僕の口から思いもよらない言葉がこぼれ落ちた。
「僕もいろいろな人に助けられて来ました。僕にお礼なんていいですから、その分他の人を助けてあげてくださいね。」
僕はその瞬間、自分の発言に驚いた。
立場が変わって初めて気付くとはこのことだ。
どの面下げてこんなこと言っているんだろうと思うと、おかしくておかしくて。
そうだ。何も必ずその人に恩が返せなくてもいいじゃないか。
僕が助けていただいた分、他の困っている人を助けてあげる。
僕に助けられた人は、また他の人の手助けをする。
そしていつかその行いは、巡り巡って必ずや僕の元に帰ってくるのだ。
今その道筋が、僕にもはっきりと観えた。
「持ちつ持たれつ」「生かし生かされ」この矢印は決して二者だけの相互通行ではない。
ご縁を数珠つなぎにつなぐことで起こる結果もまた、縁起法なのではないかと思う。
僕はこれを「ご縁をつなぐ法則」と名付けた。
良いことをすれば良いことが必ず返ってくる。
逆に恨みは恨みを呼ぶなどという物騒な言葉もある。
やはり繋ぐご縁は温かいものがいい。
小さな恩のやり取りしか見えなかった僕に、大きく物事を感じることができる手掛かりを与えてくれるお四国遍路。
これが心の眼が開いていくってことなのかな。
僕は、自分にとって机上の空論だったものが、実体験に重なり合っていく幸せをそっと感じた。
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山地 弘純
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