「お遍路さんは一日に3軒以上托鉢を行ずべし。」
遍路本にはそう書かれており、家族からも托鉢をしなさいと言われていたので、毎日ではなかったが時には歩みを止めて托鉢を行った。
加行後授けていただいた托鉢許可証を身に持ち、知らないお宅の門戸をたたく。
恥ずかしいという気持ちと戦いながら一軒一軒玄関先でお経を唱える。
托鉢は自己の見栄もプライドも捨て、乞食に身を落とす。
またそれに応じる者は遍路に施しをすることで善行を積み、一緒にお巡りするご利益を得ていただく。そのようなお修行なのだと聞いた。
僕は何かをもらいたいわけでもなく、ただただ先を急ぎたかったが、それでも本来のお遍路の心得に従った。
ほとんどの家で誰も出てこない。
出てきたとしても「うちは宗教が違います。来ないでください」と言われる。
道行く人に白い目で見られているような気もする。
それはそうだ。
現代の世相に照らせば、そのような輩は怪し過ぎる。実際、遍路詐欺も横行していると聞く。
それでも時にはにこやかに迎えられ、「これお接待」と言って百円や二百円をいただいたり、お茶を出して下さる方もあった。
中にはお接待とは別に百円を渡され、「私の分も参ってきてな。」と頼まれたりもした。
僕はそれを次の札所でお賽銭にし、その方のことを一緒に祈る。
僕はいつの間にか大勢の方の想いもひっくるめてお参りしていた。
見ず知らずの僕に優しく恵みを与えて下さる方々。
そしてその優しさを別の形でお返ししていく僕。四国に根付いたお遍路文化とは、なんと素晴らしいものなのだろう。
お釈迦様がお説きになった縁起法。
修行時代に学んだことを記したノートにはこう書かれている。
「世界に存在するものの一切が関係性によって成り立っており、自主的、自足的に存在しているものはない。Aが存在するのはBによってであり、Bが存在するのはCによってであり、Cが存在するのは・・・といった無限の連鎖によって一切は生じる。」
なんと難しい。はっきり言って意味がわからなかった。そんな僕でも、縁によって生じる結果にハッとする出来事が、お四国では多々あったのだ。
昔ながらの歩き遍路道には「遍路転がし」と言われる上り坂の難所がいくつかある。
僕は相変わらず多くのお遍路仲間に助けられながら乗り越えていった。
助けられてばかりの僕。
なんとか助けて下さった方に何か恩返しをしなければと、そのことばかり考えていた。
このままでは借りを作ったまま旅が終わってしまう。
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山地 弘純
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