高野山大学の密教学科。
それは普通の大学生と変わりない脱力した毎日。
もちろん宗教の授業が多く専門的な知識は増やしたが、修行というような実践はない。
4年間、お坊さんになるのが当たり前というような仲間たちに囲まれて過ごした。
僕も少しづつお坊さんに向け感化されていく。
なんだか穏やかに受け入れていけそうな気もしていた。
しかし僕にはどうにもぬぐうことのできない葛藤があった。
彼らみたいなお坊さんになりたいって胸を張れる人たちに比べて、僕みたいな中途半端な奴にお坊さんになる資格があるんだろうか。
さらにショックな出来事があった。
昔一緒に旅行に行ったりして、同じ家族のようにして過ごした一家がある。そこの息子は小さい頃は僕の弟のようにまとわりついていたものだ。
「最近めっきりご無沙汰だな。あの子は今どうしているだろう。英才教育だったからな~。幼稚園の時にはすでに般若心経、さらには百字の偈までも覚えていたもんな~。きっとあの子こそ立派な僧侶になるんだろうな~」
などと思いを巡らせていた。
そんな彼がお坊さんを完全に否定したという話を聞いた。
「人が死ぬのを商売にするような職業になんて絶対に就きたくない!!」
言い放った一言は、彼の両親をどうしようもなく傷つけた。
そして、僕もその言葉に激しく動揺した。僕の中には、それに反論するだけの言葉を持ち合わせていない。
そうなんか?
お坊さんってそうなんか?
周りの人たちにも、そういう目で見られてるんか?
だとすれば、何のために僕はお坊さんになるんだろう。
一体お坊さんという職業に何の意味があるんだろう。
心の声が叫び続ける。
お坊さんという職業に、どんな祝福があるんですか?
それとも祝福のない職業を、やっていかなければならないんですか?
誰でもいい、教えてほしい・・・。
月日は光陰矢の如く過ぎて、4年間が終わりを告げようとしている。
卒業後、『専修学院』という道場で丸一年修行することが決まっていた。
そうしないとこの4年が無駄になってしまう。
実践がともなってこそ理論を学んだ意味があるんだと何度も先生方から諭された。
なのに僕は未だに自分の未来を肯定できずにいる。
なぜ胸を張ってお坊さんになりたいって言えるのか、そういう人達に聞いてみたい気がした。
僕の中にずっとくすぶり続ける思い。
その理由はわかってる。
お坊さんという職業に、誇りを持てないからだ。
誇りたいのに。誰よりも強く・・・。
山地 弘純
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