「体験が素晴らしいんじゃなくて、体験によって自分が感じたこと、それが素晴らしいんじゃないかな〜。」
最近ふと浮かんできたメッセージです。
毎日生きていれば、みんなにそれぞれの体験があるわけで。
それらは全て通りすぎる一瞬一瞬のことであり、それのほとんどを味わわずに取り逃がしてしまったものばかりなのでしょう。
だからこそ、体験の中に感じたウキウキ、ワクワク、ドキドキ、ザワザワ、モヤモヤをしっかりと意識して感じていたいと思っています。
今まではそこをぼやかしたまま、「〜だと思う」と頭だけで答えていたので、全然肚からくる声を捉えることができていませんでした。
今は肚の下の方から実際に身体に与えてくる響きに心を澄ませることができるようになってきているような気もします。
オタフク風邪で苦しんだおかげかもしれません。睾丸の収縮や肚の引っ張りに敏感になりました。
その上でザワザワなどの言葉にならない感覚をしっかりと見つめます。
そして僕としてはここがとても重要だと思うのですが、その感覚を違えないように言葉にしていくのです。
ここでズレてしまう人は相当多いと思います。
フォーカシングでは「ハンドルをつかむ」と言うようですが、僕としては観照して「影をつかむ」という感じです。
昨年から体験の中で自分の気持ちを取り逃さないようにと気をつけてきました。
知識を学んだ時にも、その言葉で自分がどう感じたのかを大切にしてきました。
全て自分がどう感じたのかを言葉に変えることで、自分というものを知ろうとしてきたのです。
おかげでかなり自分のこの言葉にしにくかった感覚が、「この繊細な感覚が言い表せた!」「肚がこの言葉に納得してる!」っていうことが増えてきました。
だから今の僕は頭からではなく下に意識を持ってって、肚から逆算というか、下から上に捉えていくという感覚が、ちょっと楽しかったりします。
自分がない文章は「なりすまし」になるということもようやくわかってきました。
この肉体をもってしてのわたしが、今この瞬間の体験で何を感じているのか。
それをこれからもしっかりと大切に見守り、記していきたいと思います。
その変わり続ける私の感情、それを的確に捉える思考こそが財産なのかもしれません。
自分がわからなかった僕から、自分がわからないという方への、なにかのヒントにもなったなら幸いです(^_−)−☆
あの言葉に、私はこう感じた。
あの行動に、私はこう感じた。
「私は。」「私は。」です。
私がわかってこそ、私が外れるんじゃないかな〜☆
山地 弘純
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