ちょっと僕は違う方向に向かってたのかもしれない。
僕は心と向き合おうとしていた。
これほど嘘つきで、これほど都合いい言い訳を繰り返す心に、いちいち答えようとしていた。
眠る前でも、車を運転している時でも、日向ぼっこをしている時でさえ、間断なく語りかけてくるおしゃべりなマインド(思考)。
紐解いたら腑に落ち、紐解いたら腑に落ちを繰り返し、納得しながら進んではいくが、一向におしゃべりをやめない思考に、休む暇さえない。
僕は思考に支配されている。
考えることが素晴らしいことだと思ってきた。
しかし今、その考えは揺らいでいる。
そのマインドは本当に自分にのみ都合がいいのだ。
マインドを止めたい。
そう思い始めた。
どうすればいいの?
どうすればこのやかましいマインドの囁きから逃れることができるの?
「止めようと思わなくてもいい。ただそれを見守りなさい。」
最近読んだoshoの瞑想の本の一節である。
それを見た時思い出したのが、修行時代の授業中に松長先生がおっしゃった言葉。
たしかに同じような言葉だった。
理趣経における第4段にも通じる。
「観照者になれ」と。
マインドのおしゃべりに振り回されなくなるには、どうやら自分を自分から切り離して見守る意識が必要なようだ。
他人を自己同一視しないというのはよくスピリチュアルケアの勉強でもよく注意指摘されることだが、自分をも自己同一視せず、ただただ見守る。
悲しい、悔しい、腹立たしいという感情そのものになるのではない。
悲しんでるな。
悔しがってるな。
腹立たしく思ってるな。
という感情を見つめてやること。
他人を見つめるかのように、自分をも主観を混じえずにただただ見つめる。
マインドを止めようとせず、ただおしゃべりしているなと見守ってやる。観照する。
自我が出てくるとおしゃべりマインドは饒舌になる。
観照すると静かになる。
あ~これか。
これでいいのか。
今までは悲しい時には目いっぱい悲しみを表現すればいいと思ってた。
悔しい時には目いっぱい悔しさを表現すればいいと。
腹立たしい時には目いっぱい腹立たしさを表現すればいいと。
しかしそれはまさにマインドの思い通りだ。
マインドは私という主観を餌に生きている。
「私」と言葉を発した時、他者という鏡が作りだされる。
「私」と言葉を発した時、森羅万象との繋がりは遮断される。
「私が鏡そのもの(わたし)になった時、自分を映しだすことはもうなくなる。」
そうか。
「私」という自我が、ありのままを曇らせてるんだよな。
お釈迦様が悟りを得る前の瞑想で、「悪魔よ、去れ」と言っていたのは、きっとこの私という自我からの囁きだったのだろうな、などとまた僕のマインドがしゃべっている。
そっとそう思ってる自分を見つめてみるモードに転換してみる。
お~またおしゃべりしてるな~。よ~しゃべるな~。
そんなことを繰り返していると。確かに思考は静かになるような気がする。
悔しい時には
悔しいって思ってるな~。
悲しい時には
悲しいって思ってるな~。
腹立たしい時には
腹立たしいって思ってるな~。
主観を離れると、あら不思議。
ゆっくりと静まっていく。・・・ような気がする。
人と話す時以外に、おしゃべりをする必要はないんだって。
たしかにそう思う。
でもみんな自分のマインドと会話をし続けている。
マインドとおしゃべりしてない時が作れれば、本当に癒される時間が得られるのだろう。
マインドに支配されたくない。
マインドと同化しちゃいたくない。
主観を離れて自己を観察し、マインドにとらわれなくなった時、気づきがあるのだろうな。
考えたい時に考える。
考えたくない時には考えない。
これって重要だね。
山地 弘純
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