多くの人が「直観」「直観」といってるけど、それはヤマ勘のことじゃないかな。トンチンカンというかもしれない。
直観はちゃんと根拠のあるものだから。
我々のものの見方はどうしても自分中心で、私が、私がになってしまう。
だけどこの人間社会に生きながらも、大きな視点で遠くから自分を見つめてくれる眼も必要なんだってしみじみ思う。
例えば、私中心に見れば命はたった一つのかけがえのない命だけど、大いなる眼で見ればいのちは過去現在未来を繋ぐ縦糸と、共生する生きとし生けるものを繋ぐ横糸とで織り成された永遠のものになると思う。
「自分を大切にしたい。この感情も含めた全てを。
確かに有る。そう思いたい。私だけの大切な命。」
に対して、
「いや、そこに境目なんかない。
ただ支え合い影響しあいながら存在している現象が見えるだけ。」
「変わらない。変わりたくない。でも変わっていく」
に対して、
「いや、なにも変わっていないよ」
この自分目線と対するもう一つの大きな眼は、自分が片寄っていくもののバランスを整えてくれる。
「それは自分の尺度でしょ!」
そうささやきかけてくれる。
自我なんてないよ。
肉体ごとに境目があるなんて、思い込みだよ、錯覚だよ。
もし自我妄想で囲った「私」を主語にするのではなくって、境目をはずした大きな「わたし」を主語にしてものごとを考えて見ると、案外うまくいかなかった物事もうまくいくかもしれない。
そう、この大きな集合体を「わたし」にして、ものごとを観じてみる。
離れたあの人のことだって、「わたし」として直接観じてみる。
繋がってるもんね。
「なんか無性にあの人の声が聞きたくなった」と思ったとき、一本の電話が。
「もしも~し、元気~?」
「うそ~。今声が聞きたいって思ってたの!」
もしかすると、
そんな不思議な響き合い、
不思議な感覚、
どうしても導かれてるとしか思えないような出来事、
そんな経験ができるかもしれないね。
それがほんとの「直観力」。
。。。だそうです(笑)
仏教から来た直観という言葉。無分別智とも呼ばれるもの。
ウワベだけの理解ですが、その深さを知り、そしてなんだかすっきり。
我執をなくしていくことで「自由」「直観」など体感していくことができそうな予感がする。
山地 弘純
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