自我があるという執着を手放すということ。
我々の肉身ごとに境目はなく、天地いっぱいのいのちに抱かれている。
これは宇宙から地球を見た時の宇宙飛行士からのメッセージと同じ。
「地球のどこにも国境というものは見当たりません。」
そう、あらゆる生きとし生けるものの間に、境目など存在しない。
無我なんだ。
このことを知った時、僕の心に風が吹き抜けた気がする。
そして、自由についても目からウロコだった。
自由についての勘違いは多い。例えば束縛されていると感じる関係を断ち切っていくことが自由と思っている人がどんなに多いことか。
親に縛られたくない、自由になりたい。
嫌いな人には会わない。我慢するなんて心が自由じゃない。
これは決して自由じゃなくて、自分勝手なんだよね。
関係を断ち切るんじゃなくて、逆に繋がることが自由自在なのに。
我執を手放し、繋がれば繋がるほど、自由自在になる。
やっぱり問題は自我にあるってこと。
般若心経に観自在菩薩って出てくるよね。
無我なるが故に、この空の世界を自由自在に観じることができる。
そう、僕はどこからでも僕として現れることができるんだ。
あ~、なんて素敵なイメージなんだろう。
まさに無限の可能性。
ただ、我々一人一人が個別に無限の可能性があると思うのは大きな自惚れで、一人一人の境目がなくなり大いなるいのちと繋がることで、無限を生きることができるということ。
我が無いことは、我で無いということ。
何様かになる必要はなく、ただ関係のなかを生きればいい。
葉っぱ一枚で紅葉になることはできない。
自惚れるなと。
葉っぱ一枚一枚が重なりあい、紅く染まった木をつくり、紅くそまった木々が寄り添いあい、紅く色付いた山々が広がる。
だからいいんだ。
ただ関係の中を生きればそれだけで。
その関係を断ち切ろうとも、壊そうともせずに。
自我執着から溢れる欲望ではなく、大いなるいのちの大意欲のままに。
人間目線の物差しから、大いなるいのちの物差しへ。
あ~気持ちいいな~。理趣経や般若心経を読んでるだけで、なんだか身体の風通しがよくなって、イライラやモヤモヤが吹き飛んでいく。
なかなかこの人間中心的な経済社会でこんな考え方は実践しがたいし、考えたくもないって思う人もいるかもしれないけど、真理から離れる心と身体はバランスを保ちにくいのではないだろうか。
山地 弘純
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