最近般若心経に自信がありません。
幼稚園の頃から暗記して、お経の本がなくてもスラスラと言えていたのに。
ある時突然にその時はやってきました。
お寺の修復したばかりの蔵に向かっておつとめをしていた時です。
本は持っていたのですが、開かずに目を閉じておつとめをしていました。
今まで間違えたこともなく、間違えるはずもない場所でした。
それなのにフッとその文句が消えてしまったのです。
あれっ、なんだっけな?
僕は目を開けてそう思いました。
ま~たまにはこんなこともあると気を取り直して、その前の文句から言い直してみたのですが、再びそこで言葉が途切れてしまいました。
後ろには修復してくださった大工さんが片づけをしておられます。しかもその大工さんは得度しておられて、般若心経はばりばりに唱えることができるのです。
きっとなにやっとるんやと思われたと、僕は焦りました。
そしてあわててお経の本を開きました。
最初から唱え直していきながら、なぜか本を読みながらもその消えてしまった部分には違和感を感じながら読みました。
いままで20年近くできていたものが突然崩れてしまったことは、僕にとってショックでした。
すぐに思いだせる。
すぐに元に戻る。
そう思っていたのですが大きな間違いでした。
その部分をちゃんと間違わず言わなくちゃ、きっちり前後のつながりを確認しながら読まなくちゃ、と思えば思うほど、僕はそこで止まってしまいました。
逆にそんな心配をすることを忘れて、さっと唱えてしまった時には、ちゃんと最後まで言えていました。
あれ、今どうやって今言った?
思わず、自分で自分に問いかけてしまいます。
僕は完全にドツボにはまってしまっていました。
とらわれればとらわれるほど、深みにはまっていってしまいます。
僕は、あまりそこにこだわりすぎないようにしようと思いました。
般若心経の教えは「空」(くう)を説いています。
空とはとらわれないという意味だとと言われています。
我々は自分の体にとらわれ、自分の心にとらわれます。
自分がよければ他人はどうなってもかまわない。
自分が幸せならそれでいい。
すべて自分自分自分自分。
般若心経の説く世界に、自分という一つの塊はありません。
また命を自分の生死だけで考えません。
形あるものはいつかは死にゆき、そしてまた芽生える生が新たな形を造ります。
死と再生を繰り返す命。
それはとぎれることのない一つの営みで、その命に境界線はありません。
過去も、現在も、未来も、自分も、他人も、あらゆる生命体も・・・。
無常であり、無我であり、ただ大きく抱かれた境地なのかもしれません。
僕たちはとらわれてしまいます。
自分の生きる意味や、死の重みに。
でもそれは悪いことではないのかもしれません。
とらわれて、そして苦しんで、そしてそれを受け入れていく。
それが正しい成長だと思うのです。
空(そら)は笑ったり、怒ったり、悲しんだり、荒れ狂ったり、赤面したり、いろいろな表情を見せてくれます。
だけど雲の上では違います。どこまでも済み渡り、その全てを包み込むような雄大さで空は動いています。
海もそう。
海面でいくら大きな嵐が吹き荒れていたとしても、海底では静かで穏やかな時が流れています。
僕たちも、表面の喜怒哀楽に心が翻弄されることなく、その全てを穏やかに受け入れ、愛おしく包み込むような境地に身を置きたいものです。
それが空(くう)ってことなのかな~って、僕は思います。
座禅を組み、瞑想をするとき、「空」(くう)の境地を目指します。
無の境地とは違います。無は何も入れずに全て自分から消してしまうことなのでしょう。
でも「空」(くう)は違います。からっぽではありません。
自分の欲望も、ドロドロとした感情も全て受け入れ、消化してつつみこんでしまった穏やかな境地です。
全て入っていながら、それでいて入っていないかのような大きな境地です。
雲の上の澄み切った空。音のない深海。
空も海も、全てを包み込んでいながら、あのように静かで穏やかでいつづけるのです。
僕は相変わらず、般若心経が不安です。
でもそれでいいやって今は思います。
そのおかげで般若心経の心にふれたような気がして、なんだか嬉しい今日この頃でした。
僕らはいつでもとらわれてばかりだけど、そんな時には般若心経を唱えてはいかがでしょうか?
心の闇が少しづつ明るくなり、なんだか軽くなったような気がするはずです。
合 掌
山地 弘純
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