先日から大そうじ始めています。
お寺の客殿は8日に御詠歌有志の皆さんが綺麗にしてくださいました。
その後本堂を掃除し、そして昨日から自分たちの住む方もやり始めました。
暖かいので、毎年できないような場所までやろうという気持ちの余裕もでき、今まで何十年とできていなかった部分ができたのは、とても満足です。
子供たちも窓拭きを手伝ってくれました。
決して綺麗になったとはいえないかもしれませんが、その気持ちがとても嬉しかったです。
僕は掃除があまり得意ではないですが、案外好きみたいです。
「一人じゃ嫌だけど、二人でやると楽しいね」と妻に向かって言いながら最近はやっています。
僕の夢は、こたつから出なくても全ての物が取れるような狭い狭い部屋に住むことでした。
とりあえず大学時代にその思いを叶えて、それからまたこの家に戻ったとき、ある種の絶望感のようなものを感じたような気がします。
両親たちは掃除を趣味みたいにやっていますが、僕はほんとにやる気になりませんでした。
もしかすると広すぎる我が家をそのうち一人でなんとかしなくてはならないという思いで、途方に暮れていたのかもしれません。
それは綺麗になったという気持ちよさだけでは解消されないものでしたが、近年はその思いにも変化がうまれてきました。
たぶん、自分のキャパにおさまる掃除なら好きでいられるだろうなと感じる今日この頃です。
一緒にやってくれる人がいるというのはとても嬉しいですね。
また掃除をしながら自己対話していたのは、「始末をつける」ということです。
ひより塾でちゃんと理解したこの言葉。
始めるためのことを考えて終わりの動作をするということ。
それに連動するかのように表われてきたのは次ようなものでした。
養老孟司さんから聞いた「自分に理解できるものだけの中で生活することが田舎に住むということだ」という内容。
きらめ樹で学んだ地球の循環と、自給自足の生活。
一つの事業を終わらせずに次から次へと事業を立ち上げているような社会の現状。
捨てるということは、本当に大切にしているものを残すということだよという片をつける発信をされている方から巡ってきた言葉。
それらが脳裏で流れながら、僕は掃除をしていました。
いつしか消えていき、ただ掃除を楽しんでいましたが、後に残ったのは、「ちゃんと終わらせることがちゃんと始めるための循環への基本だよ」というメッセージでした。
それはただお正月を迎えるというだけでなく、それを越えた大きなもの。
自己分離から統合への道として、線の両端をしっかりと繋げて円にするという意識が、この循環の世界にリンクして生きていくための必要なことなのかなと改めて感じています。
創り出すことは天に手を伸ばすことのように思います。
そしてそれを終わらせるということが地に足をつけることのように思います。
始末をつけながら次に進んでいけたらと思います。
※僕のスピリチュアルな発信はとことんリアルなものです
山地 弘純
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