起床、朝の行法(約3時間)、朝勤行(おつとめ)、下座行(そうじ)、朝食、休憩、伽藍参拝、昼の行法(約3時間)、昼食、、休憩、夕の行法(約3時間)、夕勤行(おつとめ)、夕食、休憩、施餓鬼、就寝。おおまかに言うと毎日がこの繰り返し。
さらにレベルが上がっていくと起床時間が早くなっていく。最終修行の時には3時起床だった。
目を半分つぶり、足を半迦座に組み、行法に入る。禅宗の座禅のようなものだ。内容は違うだろうが、組む形は似ている。
行法は長時間に渡るため、体の固い人にとってはかなりの苦痛だ。僕は股関節が固いから、腰や足がものすごく痛くなる。ただ、その痛みも不眠の影響で意識が飛びそうになる僕にとって、自分を保つために必要だった。
口で真言を唱えながら、印を様々に組み替え、瞑想をする。阿息観、阿字観、月輪観、字輪観、三密観などの様々な観想は、全て同じ境地へ通じる瞑想なのだと思うが、僕は「入我我入観」がイメージしやすくて好きだった。
まず自分を隅々まで感じる。自分から見る大自然、大宇宙は果てしなく大きい。そして自分の肉体から、自分の意識をだんだんに切り離していく。遠くへ。遠くへ。大宇宙を感じていく。大地、海、空、月、太陽。僕の意識は今大宇宙になっている。大宇宙から自分が残して来た肉体を見つめる。あ~、なんてちっぽけなんだろう。そして再び自分の意識をだんだんに戻していく。近くへ。近くへ。大宇宙を感じたまま、自分の体に・・・。ぴったりと納まった時に観じる。あ~、僕と大自然は一つなんだ。
自分としてだけ光らせていた存在が、大自然に溶けて同化していく。そんなイメージを明確に観じれた時、とても満ち足りた気持ちになれた。
「自分というのはいったい何なのかわかりますか?」
小豆島にお参りした時、あるお坊さんから言われた言葉を、不意に思い出した。
「いえ、わかりません」
僕はそう答えた。
そのお坊さんは、にっこり笑っておっしゃった。
「それはね、自然の分身なのです」
いつ聞いたお話だっただろうか?忘れそうで忘れず頭にひっかかっていた法話の意味が、今この時、わかったような気がした。
日々はゆっくりと過ぎていく。高野山には厳しい冬が来訪していた。十二月に入ると、毎日のように氷点下を記録する。寒いなんてものじゃなかった。
同室のコウショウくんと一緒にローカを身震いして歩きながら、
「今日は何℃くらいだろ?」
「今日は少し寒さがマシだから、多分0℃くらいじゃない?
「今日はめちゃめちゃ寒いから、おそらくマイナス6℃くらいいってるかも。」
そんな予想をし合うのが日課だった。
日直が黒板に温度を書き込んでいる。それを見たとき、おおかた予想通りの結果ながらうんざりしたものだ。透き通った空気の中に吐き出す真っ白い息が、膨らんでは消え膨らんでは消える。
僕達は見えないものを観ようと修行するのだが、これも見えないものが姿を現した一つの形なのだとしみじみ感じる。
普段は見えない息が、寒さの中ではこんなにも真っ白く姿を現すんだな~と改めて思った。 優しさもそうだ。今の弱々しい自分だからこそ、形のない他人の優しさがこんなにもはっきりと観える。
自分のことで精一杯の人が多い中、いつも僕を励ましてくれる坪井ちゃん、エトちゃん。サッカーの話をしたり、のんびりとした空気を作ってくれたエムちゃん、シュウテン。極限の中でも、みんなのいじられ役で僕を笑わせてくれるヨッシー。
他にもマッサージをしてくれたり、お灸をすえてくれたり、行法中に僕のことを祈ってくれたり、僕を一緒に卒業させようと多くの人たちが助けてくれた。
僕は、一人じゃない。
山地 弘純
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